藍野×濱
番外編


「失礼しました」

ペコリと頭を下げながら、礼儀正しく退室の挨拶をすると、藍野修治は静かに職員室のドアを閉めた。
ふう、と小さく息を吐き出すと、妙なだるさが全身に滲んでくる。

(ちょっと今日は疲れたな・・・。)

ぼんやりと天井を見上げると、無機質な蛍光灯の光が目に刺さる。
今日はいつもより脳を稼働させ過ぎたようで、軽い眩暈さえ覚えた。
しかしながらそれは当然の事である。
通信制の高校に通いながら、工場で働き、さらに夕方から塾にも通うという
三重生活を送っているのだ。

そして今も――――こうして、休日に開かれる『受講生特別カリキュラム』にまで参加している。
『受講生特別カリキュラム』とは、月に一度獄問塾で催される補強授業である。
太陽が顔を出してから地平線に沈みかかるまで、文字通りみっちりと勉強を叩き込まれる。
受講生達は、講師の一言一句を聞き漏らさない様に、ひたすらノートを受け皿に忙しくペンを走らせる。
その様はまるで、経教を説き諭す教祖と僧のそれだ。
もちろん自由参加型なのだが、だからといって欠席する生徒はほぼ皆無に等しい。
そう、なにしろここは『獄門』なる塾なのだ。
少しでも気を抜けば、あっという間に周りから取り残されてしまう。
走っている位置が先頭に近ければ近いほど、後ろから追い上げて来るモノに対しての恐怖が比例する。
ここにはそういった妙なプレッシャーと緊張感が、常に張り付いていた。
だがしかし、入塾以来、全科目トップという偉業を成している彼にとっては例外だった。
そもそも藍野には競争心や自己顕示欲が無く、獄門塾にもただ「勉強をしに来ている」だけなのだ。
ただ授業を受け、ただ勉強をして得た結果がトップだったに過ぎない。

だからこそ、だろうか。
藍野が尊大に振舞わず、自然な態度で立ち回る姿すら、彼らの嫉妬心をくすぶっているのだろう。
彼の生まれ持っての、優秀な才能に対しての焦燥感。
自分の事を良く思わない連中がいることは知っていた。
シャープペンの芯が折られていたり、消しゴムが無くなっていたりと、それこそ小学生並みのイタズラだと
相手にしていなかったのだが、やはり気分のいい話では決して無い。
…ふと。

濱くんは、どうしているんだ?

先程聞いた、氏家のセリフが頭を掠めた。

「つッ」

反動で目を見開いたせいか、蛍光灯の光が光学兵器よろしく眼球に突き刺さった。
ってぇー、と呟いて思わず瞼に手を当てる。目がジンジンする。
しばらくぼぅっと突っ立っていたが、今日一日、およそ8時間近くフル稼働させた頭を休ませる為にも
早く帰って休む事にした。
瞼を閉じると日光写真の様に映し出される、濱秋子の横顔を微かに浮かべながら。

職員室の一角。

講師達は一日の授業を終え、オレンジ色の室内は山頂から重荷を下ろした様な開放感に包まれていた。
ある講師達は気に入らない生徒の愚痴を、ある講師達はこの後の予定を口々にしている。そんな中、

「いやーよく頑張るねぇ、藍野君」

藍野の教科書を覗き込みながら、講師の石田は感心した様に言葉を漏らした。

「そんな事無いですよ」

言いながら藍野は、微かに照れ笑いを浮かべながら、熱心に教科書へ蛍光ペンで書き込みをしている。
その教科書には、至る所にアンダーラインや要所を押さえたメモでぎっちり埋まっていた。
もはや教科書というよりも、自作・大辞林状態だ。

「いや、本当よく頑張ってるよ君は。今日だって、特別補強授業が終わった後もこうやって
復習に来るぐらいだからなぁ」
「はは、こうでもしないと追いつかないんですよ」
「よく言うよ、全教科トップの秀才が」

石田はかかか、と皴だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして笑うと、

「でもそんな君もこんなに努力してるんだねぇ。うちのクラスの生徒も見習ってもらいたいもんだよ」

うんうん、と一人腕を組みながら感慨深げに頷くと、そう言えば、と続けた。

「君、うちのクラスの鯨木って知っているかい?」
「えっ?」

その名前に、反射的にギクっと顔を上げる。

「いやぁ、ね。この前他の生徒が見たらしいんだけど、鯨木が君の鞄からシャーペンを取り出してたって言うんだけど…」

石田はそこで言葉尻を濁すと、ちらりと藍野の顔を窺った。
腫れ物に触るような、遠慮がちな目線。その先に言いたい事は、言わずもがな感じる。
きっと石田も気付きかけているのだろう。
自分に対して、イヤガラセをしている人間がいる事を。

「…それは、鯨木にシャーペンを貸していたんですよ。あいつ、すぐ忘れるから」

ふっと笑って、藍野は教科書を閉じた。

「……そうか。だったらいいんだがな…」
「じゃあ、今日はありがとうございました。失礼します」

藍野は石田の言葉を遮るように頭を下げると、足早にその場を去った。
石田は腑に落ちないといった顔をしていたが、藍野の笑顔を見て、つられて少し笑いながら、ああ、とだけ返事をした。
教科書を鞄に放り込んで、職員室を出ようとしたその時、

「藍野君」

呼ばれて振り返ると、意外な声の主がそこに立っていた。

「…氏家先生」

白髪交じりの髪をオールバックにしたその初老の男性は、直立不動のまま遠慮がちに声を潜めた。

「…ちょっと、いいか?」
「何ですか?」

極めて平静を装いながら、返事をする。

「ああ。…鯨木達の事だが…本当にいいのか?」

本当にいいのか―――きっと彼も、石田と同じ事が言いたいのだろう。

「聞いてたんですか」
「ああ、気になってな。…私に何か出来る事は無いのか?」

その言葉に、藍野はしばらく言葉を失った。
これはきっと、ただの講師としてではない、別の何か。
自分を捨てた事への罪悪感からか。それとも単に息子を心配してくれているのか。
どちらにせよ、紛れも無い、血の繋がった実の父親としての言葉にも取れて、

「…ありがとうございます」

思わず、顔が綻んでいるのが自分でも分かった。
今まで無意識の内に張っていた警戒線が緩む。だが、

「でも、本当に大丈夫ですよ。先生が心配するような事は何もありませんから」

講師に…いや実の父親だからこそ、小学生並みのイヤガラセに関らせる様な事は、したくなかった。
これは自分で解決するべき問題なのだ。
しばらくの間、氏家は俯きがちだった視線を藍野の目にやり、じっと見つめ、「そうか」と呟くと

「…無理はするなよ」

ふぅ、と息を吐きながら僅かに笑んだ。
諦めた様な、それでいて少し安堵感を含んだ溜息に見えた。

「はい。…じゃあ、失礼します」

言って笑うと、踵を返したが、またも氏家に呼び止められた。
藍野が怪訝な顔で伺うと、

「濱くんは、どうしているんだ?」

夕暮れが支配していた。
廊下、窓、壁―――辺り一面にオレンジ色のペンキを壮大にぶちまけた様な、
見事な黄色と赤のグラデーションである。
そこに伸びる大きな影が一つ。
そう遠くない何処かから、四時を知らせる鐘声が聞こえてくる。相変わらず頭に響く。
はぁ。と、影の主、藍野は気だるげな溜息をついた。

「何でこんな時に限ってノート忘れるんだろうなぁ…」

ぶつぶつと一人ごちながら、夕明かりに照らされた廊下を歩く。
しんと静まり返った廊下には、つい今しがたまで受講生達で溢れ返っていた面影は無く、
すっかり無人の館舎となっている。
昼間の殺伐とした空気は消え失せ、今は夕暮れが醸し出す、どこか感傷的な雰囲気に包み込まれていた。
教室のドアは閉め切られ、主を失った空き家の様に閑散としている。
ただあるのは、オレンジ色の世界と、藍野の靴音が廊下に響く音だけ。

「もう四時回ったんだよな…」

本来ならば、この時間帯に塾が始まる。
そしてこの廊下は、いつも授業が開始されるまで友達とつるむ場所であり、また彼女と

――登塾中の濱と唯一、挨拶を交わす場所でもある。
最初の頃は、自分から声を掛けないと素通りされてしまっていたが、

(要するに濱は、極度に人見知りをする子なのだろう。)

最近では彼女の方から声を掛けてくれるようになった。
そんな些細な事が、とても嬉しい。
少しでも自分に心を開いてくれたのだろうか?
これが単なる自惚れでは無い事を、小さく願ったりもする。

「…何考えてんだ、俺は…」

呟くと、藍野は自分の中に疼き始めた感情を否定する様に、小さく首を振った。
自分が濱を気にするのはきっと、特殊な出会い方をしたから印象に残っているだけだ。
彼女は衝動的に自殺をしようとして、たまたま通りかかった自分が助けた。それだけの事なのだ。
放っておくと危なっかしいから、つい目を掛けてしまうだけなのだ。
そう、それだけだ。
それに今は、そんな余計な事を考えている暇は無い。
すぐ目前に迫った模擬テストの勉強をしなくてはならない。
大検を受ける為の予想問題集も片付けなくてはならない。
他にもする事は飽きる程ある。
そう、試験はもうすぐだ。

「…えっ?」

藍野の口から思わず、間の抜けた声が漏れた。
一点を見つめたまま目を見開き、口は半開きのまま固まっている。
まるで幽霊でも見たかの様に、足に根が生えて動けなかった。

…なぜ、彼女がここに居るのか。

僅かに開かれた教室のドアから見えるのは、黄金色の教室と律儀に整頓された机、そして
一番窓際の席に座っている、見慣れた後姿が目に入った。
少し短めのボブショートの黒髪が、窓から注ぐ夕映えに照らされて赤茶け、ワンピース状の制服は紺色から煉瓦色へと染め上げられている。
それは今まさに、自分の思考を占領していた女の子に違い無かった。

「…濱?」

そろそろとドアに近づき、確認する様に声を掛けると、ボブショートがビクリと揺れた。

「あっ、…藍野君」

反射的に振り返り、声の主が藍野であると知ると、心なしか濱は強張っていた表情を綻ばせた。

「どうしたんですか?こんな時間まで…」
「それはこっちのセリフだ。濱の方こそどうしたんだ?電気も点けずにさ」

言いながら藍野は、すぐ手元にあった電気のスイッチを入れようとした。
濱は小さく首を振りながら、

「あ、いいの。もうすぐ終わると思うし…」

言って、濱は机の上に広げた数枚のプリント用紙に視線を落とした。

「これは、今日の授業で出された課題か…」

近付いて、藍野は濱の手元を覗き込む。
そこには英和辞書を切り取った様に、英文を惜し気も無く詰め込んだプリントが2,3枚。
外国人と文通でもしているのかと突っ込みたくなる。

「へぇ、英文解釈か。俺は理系クラスだから文系の授業受けた事無いけど」

ここ獄問塾では、主に文系クラスと理系クラスに二分されていた。
もちろんそれぞれの専攻科目は異なっており、受ける授業内容もそれを特化したものとなっている。
少人数精鋭の、まさに志望校に受かる為の塾だ。

「うん…。明日提出だから早く終わらせたかったし…」

俯いて、それに、と続けた。

「家にいたら、ちょっと落ち着かなくて」
「…そっか」

藍野はそう言うと、それ以上言及しようとはしなかった。
濱の家庭内が今、複雑な状況にあるという事は彼女から聞いていたし、それが衝動的とはいえ
彼女の自殺未遂を増長させる原因にもなったのだ。
それに何より、部外者である自分が濱の家庭内の問題に図々しく立ち入ることは出来ない。
きっと出来るのは、昼間のワイドショーよろしく、生電話で見知らぬ主婦の悩みを根掘り葉掘り掻き回す
厚顔無恥な司会者くらいだろうか。

「じゃあ、俺も一緒に手伝うか」
「えっ?」

予想外な藍野の申し出に、濱は驚いた様子で顔を上げた。
眼孔一杯に目を見開き、パチクリとしたまま藍野を凝視している。

「でっ、でもっ……藍野君、何か用事があるんじゃ…」
「いいって。忘れたノート取りに行くくらい直ぐに済むし、って言っても隣の教室だけどな」
「でも…藍野君、帰り遅くなっちゃいますよ」
「それはお前だって一緒だろ?」

でも、と呟きながら物慎ましく遠慮をしている濱を尻目に、藍野は「いいからいいから」と宥めながら、
濱の前の机を軽く持ち上げ、体ごと180度回転させると彼女の机にピッタリとくっ付けた。
机同士のお見合いである。

「あの…本当にいいの?」

濱は藍野の親切心に気後れしたのか、臆面のまま上目遣いで藍野を見やる。
藍野は頷き、「ああ」と答え、

「それに模試も近いから、復習を兼ねて俺も英文解釈しときたいしさ」

言って藍野が口元を持ち上げて見せると、への字だった濱の口元もまた、彼に感染した様に緩んだ。
その表情からは、先程まで纏っていた困惑の色は消え、淡淡しい安堵感が滲んでいる。

「…ありがとう」

言って、濱は微笑んだ。

まるで居残り勉強のようだ、と藍野は思う。
それは小学生の頃、宿題を忘れた生徒に課される恐怖のペナルティーである。
担任の監視の下、教室は牢獄と化し、生徒は如何なる理由であれ責務を全うするまで帰宅を許されず、
何人たりとも逃げる事は出来無いのだ。

藍野も小学2年の時、一度だけそれを体験した事があった。

その日は藍野が毎週欠かさずに見ていたアニメ『それゆけ!解決スーパーマリオ』の最終回で、
どう足掻いても放送時間に間に合う筈が無かった。彼が自分の不運をこれ程呪った事は無い。
因みに『それゆけ!解決スーパーマリオ』とは、毎週火曜日【6ch】で夕方16:30から17:00にかけて
放送されていた子供向けアニメである。
その内容は至って簡易で、頭がこしあんぱんで出来た、怪盗でもあり正義の味方でもあるアンパンマリオが主人公の
ベタな勧善退悪をテーマにしたヒーロー物ではあるが、
当時は幼稚園児から小学生低学年の間に絶大な人気を誇ったアニメで、その熱は視聴していない者に対して
「時代遅れ」という非常に不条理なレッテルを貼られる程だった。
藍野も例外なく、放送日はテレビの前で正座し、彼の勇姿に夢中になって目を輝かせていたものだ。

あの時も丁度、西へと沈んでいく夕日を見送りながら一人置き去りにされた荷物のように、見届ける事の出来無かった
ヒーローの活躍を思い描きつつ、教室の端っこで黙々と問題と対峙していた。
今、目の前にいる濱秋子のように。
個人授業の講師よろしく、机を対面させてお見合いしてはいるのだが、
実際の所、藍野の出る幕では無かった。
何故なら彼女もまた優秀であり、時々問題に詰まってプリントと仲良くにらめっこをする事はあっても、
藍野が家庭教師の真似事をする必要も無かった。
彼が出来る事といえば、濱が頼ってきた時の為にそれとなく示唆するヒントと、彼女の健気な姿を見守る事くらいだろうか。
だが藍野はそれで十分だと思っていた。
そもそも「女子のホープ」と称される彼女の事。自分の力添えなど必要無いという事は知っていた。
ただ、少しでも同じ空間に留まる口実が欲しかっただけなのかも知れない。
労働基準法をとっくに違反した脳が、もう疲れたと訴えるように叩いてくる。
明日も仕事じゃないか勘弁してくれ、と言わんばかりに、懲りきった肩の関節が小さく悲鳴を上げる。
それでも、黄昏の教室に一人取り残された彼女を放っておけなかった。

―――本当にどうかしていると、自分でも呆れる。
自嘲する藍野とは裏腹に、静謐な時間がゆったりと流れていく。
この教室だけ外の世界から切り離されたような感覚さえ覚える。
秒針の時を刻む音が、煩わしい。

「君がここへ来る前まで、濱くんが鯨木達の標的だったんだよ」

藍野は氏家の質問の意図が汲めず、彼の言葉尻を捉えてそのまま返すと、
氏家はおや、と意外そうな顔付きで僅かに躊躇した後、そう言った。
彼は二人が知り合いという事で、藍野もそれを薄知りしていると思っていたらしい。
氏家にとっては、濱がまた彼らに嫌がらせを受けていないかと示唆したつもりだったのだが、結果
藍野に不穏な事実を晒す事となった。
彼からその事を告げられた時、藍野は驚嘆よりもなるほど合点がいったように納得してしまった。
しかしながら、何故か冷蔵庫から転がり出てきた、宇宙人に生命エネルギーを吸い取られた婆さんの様に凋んだレモンを
発見した時程には驚いたのだが。

(あいつらならやりかねないよな…)

濱の伏せがちな瞳を見入りながら藍野はぼんやりと思った。
彼女を自殺未遂へと追いやった、もう一つの根源である「いじめ」の存在。
そしてその延長上に浮かび上がる鯨木達。
何分気の弱い濱の事だ。
彼等の粘着質なイヤガラセを自分の中で五倍十倍にして受け止め、ますます窮追されていたのかも知れない。
元々子供染みた連中だと思っていたが、ここまで来ると生憎しい。

…ふと、思い至った。
だったら、もしも。
もしも自分がこの塾に来る事が無かったら。
鯨木達の標的が自分に向かっていないままだったら。
濱は、どうなってしまっていたのだろう?

そこで何の脈絡も無く、今日があの日見逃した『それゆけ!解決スーパーマリオ(最終回)』の再放送日である事を思い出した。

「…あの、藍野君…どうしたの?」

思考の海を漂っていた藍野は、濱の呼び掛けで突として現実に引き戻された。
はっとして、鈍い意識の底から焦点を合わせる。
渋としていた視界がクリアになり、最初に捉えたのは、濱のどこか戸惑いを含んだ垂れがちな二つの目だった。
こちらを上目で見据えながら心配そうに眉を顰める。
藍野は咄嗟にあ行の最初の音を発すると、瞬間的にフリーズした脳を再起動させた。

「やっぱり、藍野君疲れてるよね…ごめんなさい」
「いや、ちょっと考え事してただけだよ。気にするなって」

結構長い間考え込んでいたのか、頬杖を付いていた肘がじんわりとむず痒い。
心底申し訳無さそうに俯いていた濱は顔を上げると、不思議そうに小首を僅かに捻って、

「考え事?」
「ああ。それも本当に下らない事。こんな事考えてたってしょうが無いのにさ」

最後の片言は自分に言い聞かせるように。
はは、と乾いた笑い声を上げながら、藍野は小さく息を吐いた。
一方彼の真意が掴めない濱は、ますます困惑した表情で「え?」と呟きながら、頭上に大きな?マークを出現させて
口を半開きにしたまま藍野を凝視している。
その間の抜けた表情が可笑しかったのか藍野は思わずふっと吹き出すと、からかう様な口調で言う。

「それより、さっさと課題終わらせないと『それゆけ!解決スーパーマリオ』の最終回見逃すぞ」

濱は一瞬キョトンとしてから、

「…もう。そんなの見るような年じゃないよ」

微笑った。

普段ではあまり見せる事の無かった濱の笑顔に、藍野がこんなに至近距離で遭遇するのは初めてだ。
彼女は柔らかな表情を浮かべながら、くすぐったそうに笑む。
これでいい。
鯨木達の事も、アンパンマリオの事もかなりどうでもいい。
自分が撫で物になる事で濱がこうして微笑っていられるなら、それで十分だ。

―――認めてしまえ、と何処かで囁く声がした。
しかし藍野は言下に否定する。
もしそれを思い許せば、穏やかなこの時間がこの空間が、嘘のように壊れてしまう気がした。
しばらくの間藍野もつられて笑んでいたが、濱は藍野と目が出会うとぎこちなく視線を外し、再び俯いてしまった。
そして手元に目を散らすと藍野の方にプリントを差し向け、間を取り繕うように、

「あっ、あの。藍野君、ここの訳ってどうすればいいのかな?」
「ん?どれどれ…」

濱の様子に明らかな不自然さを感じたが、藍野は彼女が指し示した英文を覗き込んだ。
aやらbやらが千篇一律に並んだ文章を一瞥すると、プリントを手に取り、藍野はうーんと口内で小さく唸る。
どうやらそれが電源のスイッチだったようで、次の瞬間、

「『米軍基地脇の歓楽街に住むある男には、とても大切な約束があった。
それはずっと前から交わしていた、孤独な彼にって唯一の支えであった―――』」

自動翻訳機よろしく、藍野の水晶体に当てられた英字は世界共通語から
日本の島国にしか通じない土語へと変換される。
どこを探しても外国語しか見当たらないこの紙切れも、彼の目には今、島国のそれしか映っていないのだろう。
まるで作文を読み上げる様に、事も無げに藍野の口から文章が紡がれていく。

「『彼はクリスマスイブに彼女と再び会えることを信じ、約束の場所である隠れ家へと向かう。』」

濱の表情からは既に尊敬の眼差しが漲っている。
続ける。

「『劇的な再会を果たした二人。二度と離れないと心に決めた彼は彼女を抱き寄せ、その目を覗き込んだ。
そして愛おしそうに、こう言った。』」

濱の表情に戸惑いの色が浮かぶ。
続ける。

「『゛俺が君を守る。一生を掛けて、君の笑顔と共にある。…ずっと好きだった…愛ぃqあwせdrftgyふじこlp』」

…………………………。

秋なのに身体が熱い、と藍野は感じた。
だがその謎はすぐに解けた。情けない程自分の顔が紅潮しているのだ。
藍野はあの日『それゆけ!解決スーパーマリオ』を見逃した時以上に、自分の不運と、こんな一昔前に
40代主婦の間で流行った、韓流ドラマのワンシーンのような英文を作った講師を呪いたい気持ちだった。
事情を知らない者が最後のセリフだけ聞いたら、それはもう立派な愛の大告白である。
誰も居ない教室に二人きり、艶やかな夕日をバックに、韓国のそれさながらに歯の浮くような睦言を交わす
カップルならば様になるだろうが、この場合、間抜けな事にそうはいかない。

「………………」

秒針の時を刻む音が聞こえる。
それ以上に早く鼓動は波打っているに違いない。
そう遠くない何処かから、空を伝って五時を知らせる鐘声が聞こえてくる。相変わらず頭に響く。
だがそんな事よりも今は、この気まずい沈黙を如何にして打破すべきか、
という大論争が藍野の脳内で勃発している。

「………………」

窓の外から、一層強くなった西日が黄昏の教室を焚きつけるように売り惜しみなく注がれる。
しかしそんな中にあっても尚、濱の顔もまた真っ赤だった。
俯き、困惑しきった顔で眉をハの字に曲げ、口元は一向専修に励む修行僧のようにきつく結わえられていた。
その表情だけ見ると、まるで満員電車の中で痴漢にあっている時のそれだ。
濱が膝元に置いた手を、壮大な覚悟を決めたようにぎゅっと握り締める。
一方藍野も、彼の中で未だかつて無かった激論の末、世界中のありとあらゆるボキャブラリーを集約した結果、
やっと導き出された答えを音に乗せようと、

「…あ」
「あ、あのっ…」

二人同時に顔を上げて、互いの目が出会う。
藍野は思わず目を剥いた。先んじて口火を切ったのは、意外にも濱だった。
濱は目を逃がしながら、

「……あの、ありがとう。もう大丈夫…やっぱり藍野君はすごいですね」
「あ、いや…」

言い淀んで藍野は取り敢えず、はは、と笑ってみる。
同時に、反芻した言葉は効力の無い言霊となって、その軽薄な笑いと共に空気中で昇華された。
濱は藍野から一時熱烈なラブレターと化していたプリントを受け取ると、再び机に向かう。
そして、幾度目かの沈黙が訪れた。
しかしそれは決して居心地の悪い雰囲気では無く、どこか甘美な色を湛えたものだ。
束の間の、甘い余韻が漂う。

「あっ、やだ…」

小さく声を上げて、濱は手を止めた。

「どうかしたのか?」
「うん…芯が切れちゃったみたい。他に替えも無いし…」

濱はシャーペンのノブをカチカチと鳴らしてみるが、何の応答も無い。

「じゃ、俺のやつ貸すよ」
「あ、ありがとう……」

言って濱は、「ごめんない」と呟いて肩を丸める。
そんな彼女を横目で見やりながら、藍野は小さく苦笑した。
藍野は机の横に掛けてあった鞄から筆箱を取り出すと、中から一本のシャーペンを手に取り、

「あれ?」

何度かノブをノックしてみるが、見事に無反応である。
嫌な予感が、した。
こうやって何の前触れも無く、シャーペンなどが壊れるという不可思議な事態が起こったのはこれが初めてではなかった。
ヨハネ黙示録に記されている出来事でも無く、ポルターガイストの仕業でも無い。
明らかに人為的な嫌がらせである。そしてその心当たりは当然、

(またあいつらか……)

全滅だった。
藍野の筆箱にあったシャーペンと名の付く物は全て、その機能を果たせないただのレプリカとなり果てていた。
いくらノックしようと、すっかり軽くなったホルダーから黒鉛のそれが出てくる筈も無く、
代わりに湧いて出てきたのは藍野の呆れたような声だった。

「ったく、しょーがない奴らだな…」

レプリカとなった最後のシャーペンが、藍野の手の中でカチカチと小馬鹿にしたような笑い声を上げて、
やがて黙りこくった。
藍野は小さく息を吐くと、やれやれと肩をすくめた。
この際、文字を書ける物ならボールペンでも何でもいい。

「悪い、濱。他に何か書くもの……」

言って、藍野は二の句が継げなかった。
濱の表情が凍り付いていた。
火照りの収まりきらなかった頬は平温を取り戻し、軽く血の気が引いた顔色で
藍野の手元に目線を固定したまま、射付かれたように停止している。

「…濱?」

不審に思って藍野が声を掛けると、濱は僅かに開かれた口から「あ……」と声を漏らして、
物言いた気な目で藍野を見やり、再び口元を縛って俯いてしまった。

「お、おい。どうしたんだよ」

濱は応えない。
藍野は焦って己の行動を振り返ってみるが、やはり何の落ち度も無い筈だ。参った。
困った時の癖で頭を掻いてみるが、とんちで有名な臨済宗の禅僧のようにたった3秒足らずで
急に良い案が浮かぶ筈も無かった。
静かに侵食する、先程までのどこか浮ついた空気を追い払うような沈黙。
そして、

「……な…さい…」

ぽつり、と濱の口から微かに音が落とされた。
細い肩が小刻みに揺れる。

「え?」
「ご…ごめ…なさい……」

蚊の鳴くような震え声だった。
泣いているのだろうか。
藍野の中で、何かが不穏な音を立てて騒ぎ出す。

「なんで…謝るんだよ」
「ごめん、なさ…ごめ…」

濱はそれ以外の言葉を知らない赤子のように繰り返した。
何度も、何度も。
しゃっくり上げながら懺悔し続ける。
やがて俯いた顔から、頬を伝って一筋の雫がこぼれ落ちた。

「濱…」
「あ、あたし、藍野君に何もしてあげられない…」

嗚咽を漏らしながら、濱は膝元に置いた手に力を込める。
藍野は黙って濱の言葉を待った。
濱は震える肩を上下に動かしながら、

「あの時、あたしは藍野君に助けてもらったのに…あたしは何も出来ない……何も…」

―――たちどころに、氷解した。

ずっと握っていた役立たずのシャーペンが、支えを失って藍野の手元から転げ落ちた。
そのまま回転を続けて、机の岬から派手にダイブする。
藍野が、自分の代わりに鯨木達の標的になった事を。
そしてそれを止める事が出来ない非力さを。

―――藍野の思考は、もう考える事を放棄している。
今はただ、自分の為に無力を嘆き、自分の為に涙を流している目の前の女の子を愛おしいと思った。

「濱、俺は…」

言いかけて、ビクリと濱の肩が跳ねた。
濱は迷子になって泣き喚いた子供のように、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、

「ごめんなさい…あ、あたし、また藍野君に迷惑ばっかり掛けて…」

そんなんじゃないと否定してやりたい。
だが藍野の口は、言葉を忘れた蓄音機のように音が出ない。
目の前の泣き顔をただ凝視するしかなかった。
濱は藍野から目線を外すと、逃げるようにプリントと鞄を引っ掴んで椅子をひき、

「今日は本当にありがとう…また明日」
「お、おい。濱っ」

藍野はやっと搾り出した声と共に慌てて席を立った。
同時に、決して俊敏ではない濱の足が絡まる。

「きゃっ!?」

小さく悲鳴を上げて、重心を失った濱の上体は大きくバランスを崩した。

危ない―――藍野が咄嗟に伸ばした腕は、彼女の腰を捉えそのまま体ごと引き寄せる。
反動で、濱の手から鞄が重力に逆らえず床へ滑り落ち、投げ出されたプリントは空中ではらはらと二曲を舞う。
そして勢いよく飛び込んできた濱の身体が藍野の腕の中に体当たりを決め込み、すっぽりと納まった。
濱は一瞬自分の身に何が起こったか理解出来なかったが、全身に藍野の体温を感じて、
ようやく抱き竦められているという状況に気付いた。

「……あ…」

濱の戸惑ったように呟く声が、助走し始めた心音と共にシャツを隔てて直接胸に響く。

「…本当に危なっかしいよな、お前って…」

藍野は苦笑を浮かべたまま、濱の腰に回した両腕に微力を込める。
濱の肩が小さく揺れた。
ごめんなさい、とくぐもった声で言うと、濱は藍野の胸に噛り付くように顔を埋めて、

「…なんだか、あの時みたい」
「あの時?」

藍野が聞くと、顎の下にある濱の頭が頷く。
彼女の目に溜まった涙が、シャツに少しだけ染みた。

「藍野君と初めて会った日。あの時も、あたしは藍野君に助けてもらった」
「………」
「あたし、いつも藍野君に助けてもらってばっかりで…それなのに藍野君が困ってる時には、あたしは

何の力にもなれなくて…」
濱の震えるような息遣いを全身で感じる。藍野のシャツを握った彼女の手に、力が込められた。

「ごめんなさい…」
「濱が、謝る事じゃないだろ?」

言って藍野は、小さな子供をあやすように濱の頭を軽く叩いた。
もう彼女の口から吐露される謝罪の言葉も、世界中の不幸を一身に背負ったような
ぐしゃぐしゃの泣き顔も、もうとっくに見飽きてしまったのだ。
濱が自責の念に駆られる必要は無いという事を、彼女に知らしめなければならないのだ。
だから、

「…だから、もう泣くなよ」

濱の動きが止まった。
糸が切れた人形のように、小刻みに震えていた肩が静止する。
やがて、藍野の腕の中から濱がゆっくりと顔を覗かせた。
鼻の頭は、12月の聖なる夜に無償で良い子にプレゼントを配り回るという、いかにも胡散臭い爺さんに
こき使われるトナカイの鼻よろしく、充血しきって真っ赤になっている。
見開かれた目からこぼれた最後の雫が、役目を果たして地球の裏側へと帰っていく夕日に映えた
黄金の光を反射した。
藍野の目と、濱の目が出会う。今度こそ外される事はない。
藍野は笑む。
この表情が、少しでも濱に感染るように。

「…な?」

濱の口元が歪んだ。真一文字に結ばれていたそれが影もなく崩れる。
泣いているような、笑っているような。
全く相反する表情を浮かべて、返事の代わりに濱はどうにか、えくぼを刻んだ。

顔が近かった。ただそれだけだった。
そんな当たり前の状況の中で、どちらともなくお互いの唇を重ねた。

触れるだけの、軽いキスだった。
柔らかな感触を唇に感じ、少し離す。
濱の、どこか怯えたような瞳がそこにあった。
誰も居ない教室に二人きり、艶やかな夕日をバックに、韓国のそれさながらに歯の浮くような睦言を交わす
カップルならば様になるだろうが―――この場合はどうなるのだろうか。
藍野はその答えを探すように、もう一度口付けた。
今度は深く、濱の咥内に舌を滑らせて彼女のそれを絡ませる。

「…んっ!?…ふっ…」

濱は彼の突然の侵入に驚いて目を見開いたが、やがてその表情は苦しげにも恍惚とした色が混じる。
角度を変えて歯列をなじり、何度もお互いのそれを絡め合う。

「ふぁっ…はっ……ぁ…」

濱の口端から漏れ出すよがるような息遣いは、彼の行為を駆り立てる催淫薬でしかない。
藍野は濱の腰に回した片腕を締め付け、首元を捉えたもう片腕は彼女を逃すまいと引き付ける。
濱はますます藍野に食い付かれる格好となったが、それでも尚彼の責めを受け腰し続ける。
正になすがままだった。
随分長い間互いの咥内を貪って、藍野はやっと濱の唇を自由にした。

「はぁっ……」

離した唇から透明の糸が筋をなしていやらしく後引く。
濱は解放されたそこからすっかり荒くなった息を吐くと、切なげに潤んだ瞳に藍野を映し出す。
そして上気した頬を僅かに緩ませて、この黄昏の教室に溶け込ませるような声で囁いた。

「…藍野君……好きです……」

紛う事なき告白だった。
まるで飾り気の無い、誰にでも口に出来るような簡素なフレーズが、濱の精一杯の意思表示だった。
たどたどしく、目の前の初恋の人に自分の想いを伝えようとしている。
しかし濱がその続きを紡ぐより以前に、再び藍野の口が覆い被さった。
藍野は濱の咥内を愛撫したまま、ゆっくりと彼女の背中を傾けて上体を机上に押し付けると、
折り重なるようにして倒れこんだ。

「んっ……うぅ…ぅ」
「…濱」

藍野の低く、優しい声色に濱の身体がピクッと跳ねる。
その素直な反応が可愛くて、藍野は彼女の涙の跡をなぞるようにキスを降らせる。
そして濱の手首を押さえていた片方の手で、彼女のブラウスに飾られた赤い紐状のリボンをほどくと、
藍野はごく静かに悟った。
もう、自分を止められないという事を。
濱の唇に軽く触れただけで大きく揺らいだちっぽけな理性は、やはりどうして当てにならなかった。
きっとこの紐状の赤いリボンは、昔々に浦島なんとかが竜宮城で貰った、お土産の重箱に備わっていた
戒めの赤紐のような物なのだ。
浦島なんとかは地上に戻った後、空腹に負けて絶対に開けてはいけないという約束を破り
哀れな結末を迎えたが、藍野は欲情に負けて、最後の砦を今自ら突き崩そうとしている。
すぐ目前に迫った模擬テストの勉強をしなくてはならない。
大検を受ける為の予想問題集も片付けなくてはならない。
他にもする事は飽きる程ある。
そう、試験はもうすぐだ。
―――だが何よりも今は、濱が欲しかった。

「…ひゃ、ぁっ…」

藍野は彼女の首筋に顔を埋めながら、舌を這わせて甘噛みし、白い柔肌に赤い印を付けていく。
その度に漏れる濱の甘い声が徐々に熱を帯びていった。
濱の背中に手を回すと、ファスナーを下して煉瓦色に変色したベストをゆっくりと剥いだ。
そして一つ一つ、胸元のボタンを丁重に外していく。

「あ……」

露になっていく素肌にひんやりとした外気を直に感じて、濱は改めて脱がされているという
事実を知る事になった。
濱は思わず湧き上がる羞恥心に肩をくねらせて顔を逸らすが、彼女の上にいる藍野によって
もたらされる快感に、敏感な身体は正直だ。
首筋から、はだけた鎖骨にかけて繰り返される、藍野の執拗に啄ばむような愛撫が華奢な身体を刺激する度に、
火照った肌が更にそれを求めるように熱を上げて歓喜する。
そして藍野はとうとう最後の留め具を外すと、濱の上半身を外気に晒した。
夕明かりの黄金色に中てられた、清楚な白い下着に包まれて盛り上がった膨らみの
意外な豊かさに藍野は思わず凝視する。

「…あ、藍野君……その、あんまり見ないで…」

濱は藍野の視線に気付くと、目恥ずかしそうに上目遣いを向けて哀願する。
藍野は口元をだらしなく緩めて呆けたように、

「…いや、濱って着やせするタイプなんだな…」
「っ、え…あの…」

濱の上気して赤みを帯びた頬が、さらにみっともないくらい赤くなる。
藍野はその様子にふっと吹き出すと、羞恥に耐え切れずに背けられた濱の顔を追って口を塞ぐ。
片手を下着の中に忍ばせ、柔らかな白い乳房をゆっくりと揉みしだいていく。

「んっ……はぁ、あぁっ…」

強く揉んで、歪に崩れる双丘を手の平で弄ぶ。
そして快感を主張したその頂を指の間で軽く挟んだ。

「あっ、やぁっ!」

濱はビクンと一際大きく弓なりに反ると、自分の上げた喘ぎに驚き、
藍野から逃げるように慌てて顔を反らして手で口元を覆った。
こんなにも甘く、淫らな観悦の声を出す自分が信じられないといった表情だ。
濱の加虐心を煽るような仕草に後押しされて、藍野は更に指を躍らせた。

「…ここ、こうされるのが好きなのか?」
「やっ……あっ、あぁ、んっ…ぁ……」

藍野は既に硬くなった頂を摘んでは軽くこねて、更に指先で刺激する。
口元を覆った手の隙間から、濱の淫声が絶え間なく溢れる。

「あ…藍野く、ん…っ……」

濱は朧けに溶けていく意識の中で、彼の存在を確認するように呼ぶ。
藍野はそれに答えるように濱にキスを落とすと、乳房を弄っていた手を止め
すっかり紅葉を散らした彼女の色めかしい頬に触れた。
押し寄せてくる快楽の波に耐えるように瞑られていた濱の目が恐る恐る開かれ、藍野の顔を捉える。
濱の瞳に写ったその表情は、どこか切なげに笑んでいた。
そう遠くない何処かから、空を伝って六時を知らせる鐘声が聞こえたような気がする。
秒針の時を刻む音さえ、熱に浮かされて痺れた脳にはもう届かない。
夜の気配を含み始めた夕焼けの赤が、濱の輪郭を微茫とさせる。
藍野は彼女の頬を手で包んだまま「参ったな」と呟くと、

「こういう時に、ああいうセリフ言うんだろうな…」
「…え?…」

藍野は苦々しく笑んでもう片方の手を濱の背中に回すと、ゆっくりと彼女の目を覗き込んだ。

「『俺が君を守る。一生を掛けて、君の笑顔と共にある』」

濱の瞳が見開かれて僅かに揺れる。
濱は好きだと、懸命に想いを伝えてくれた。だから自分も応えなければならないのだ。
あの時は馬鹿みたいに恥ずかしくて、最後まで言えなかった歯の浮くようなセリフも
今なら彼女の為に言えると思った。
藍野は覚悟に殉じようと目を瞑った後、再び濱を見据えた。

「『…ずっと好きだった…愛してる、君だけを』」

背中に回した手が、下着のホックを静かに外した。






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