真実の月(非エロ)
東海林武×大前春子


「契約は3ヶ月ということで」

――あれから3ヶ月
今日で私は、この営業所を去る。 同時にそれは、東海林のマンションを去ることを意味していた。

午後6時。

「時間ですのでこれで失礼します。」

誰に言うともなく挨拶をし、いつも通りに事務所を去ろうと立ち上がる。 なぜだか今日は、いつも居るはずの東海林の姿はなかった。
不意に、運転手たちのリーダー的存在である土屋が、 ストーブを囲んで集っていたところからおもむろに立ち上がり、 こちらへ歩み寄ってきた。それに他の運転手たちも続く。

「お疲れ様。この3ヶ月間いろいろあったけど、俺ら、あんたと一緒に働けてよかったよ」

この3ヶ月間、土屋たちと対立することもあった。 だが、彼らも日々の春子の生き様を見て、現在では春子のことを認めるようになっていた。
微笑み、差し出された手を取り握手すると、その場を後にした。

―――
マンションに帰ると、電気はまだついていなかった。 …東海林は一体どこへ行ったのだろう?
合鍵でドアを開けて中へ入り、ブーツを脱ぐ。 壁の電気のスイッチを手探りで探す。

「お疲れ様〜!!とっくりィ〜!!」

クラッカーの音と同時に、聞き覚えのある声が耳に響いた。 一瞬驚いて、何が起こったのか分からなかった。
部屋には即席ながらも、色紙の輪で作られた飾りが施されており、 目の前のテーブルには、ケーキやから揚げ、フグ刺しに東海林…もとい、焼きそばパンが並んでいた。

「今日でお前、契約終了だろ?」
「大前です」
「ん、だからほら、送別会!ほら、ここでだったらさぁ、“業務時間外”の付き合いじゃなくて“プライベート”な時間だろ?」

―“俺、考えただろ〜?”と、したり顔で自慢げに話している。

「…それで、業務時間内にサボってこんなことをしてたんですか?」

うれしさを抑えようと、わざとしらけたような口調で言い放つ。

「だってさぁ〜、運チャンたちが早く帰ってお前を驚かせてやれ、って言うもんだからさぁ〜、ね?」
「…ふ〜ん…」
「…すいません。――でもさぁ、今日でお前、ここ居んの最後なんだからさぁ、…いいじゃねぇか、な?」

東海林の“最後”という言葉が寂しく響いた。
今日でここに居るのも最後…
もしかしたら、この男に会うのも―…

「ほ、ほらこれフグ!お前死ぬほど好き、って言ってたよな?高かったんだけど奮発しちゃったよ〜!本場下関のやつだぞ〜?」
東海林はわざと明るく振る舞い、おどけて見せている。
それは彼なりの優しさなのだろう。

「…洗面所で手を洗って来ます」
「ぉ、おう!うがいも忘れんな〜?…っておい!そっちはトイレだぞ?とっくり〜?」

――

足早にトイレに向かい、鍵をかける。
途端、頬を伝う一筋の滴。

誰かに何かを祝ってもらうのはこれで二度目だ。

うれしい…
うれしい うれしい…
でもだめだ…
このうれしさに慣れてはいけない…
もうこれ以上傷つきたくない…

いつも心にブレーキをかけてしまう。

―――

「お前さぁ、洗面所はそっち――…」
「……」

台所に戻ると、自分に振り向いた東海林と目が合った。彼は、私の目が赤くなっているのに気づいただろうか。

「…まぁ、いいや。じゃあさ、始めよう!な?まずは乾杯だ!!ほら、これ、グラス持って!」

彼がグラスにワインを注ぐ。甲斐甲斐しい働きぶり。さすが、「元」本社主任の営業マン。慣れている。

春子はビールよりもワインが好きだった。東海林はそれを知っていて買ってきてくれたのだろうか。そんな小さなことまでもがうれしかった。

「乾杯〜!!」
「……」
「…お前さ、もっとこう盛り上がれよ!わ〜 とかきゃ〜 とかよ」
「…わー」
「何だよ!その棒読みのわー ってよぉ!」
「言えと言われたので言ったまでですが、何か?」

フグ刺しを食べながら対抗する。流石下関、美味しい。

「いや、確かに俺は言えって言ったよ?!だけどさぁ、もっと楽しそうに笑って笑顔で言えよ!」
「わ〜!すごくうれしいです〜ありがとうございますぅ〜!!」
「裏声やめろって…ん?あれ?待てよ、その声どっかで聞いたな…あ!!お前、俺が賢ちゃんへのメール削除頼んだときの…!あの電話のときの森美雪…!!」
「…今頃気づいたんですか?遅っ」
「何か違うと思ったんだよな〜、ちっくしょ〜!!やっぱお前か!」
「大前です!」
「あ、でもさぁ。あの電話のとき、俺にお前と替わるかしつこく聞いてたのってもしかして―…俺がお前のことをまだ好きか試したんじゃ―…?」
「……」

テーブルを挟んで、東海林の顔をじっと見つめ、徐々に自分の顔を近づける。

「え…?何…?!まさか…ホントに…ッ?!」

東海林はうれしさで完全に動揺し、姿勢を正して目を閉じ、こちらに顔を近づけてくる。

――東海林の顔に付いた揚げ物のカスを取ってやる。きっとから揚げを作るときに飛んだのだろう。

「…付いてましたよ」
「…え?あ、あぁ、ありがとう」

目を開けた彼は、間の抜けた顔をしていた。少し意地悪だっただろうか。

「…あ、あのさぁ、実はまだお前に話してないことがあってさぁ…」
「…何ですか?」
「……」
「……?」

いつになく真剣な顔の東海林。予期せぬ言葉に備えて、こちらも思わず身構える。

「実は――…」
「何ですか、さっさと言いなさい!」
「あぁ…、悪い。実は俺――…本社に戻れることになりました〜〜!!」

東海林は満面の笑みで両手を上げて、万歳のポーズを取っている。

「…そうですか」

言葉こそそっけなかったが、うれしくて、瞬間微笑んでしまった。

――私としたことが…。
よかった…うれしそうな東海林の顔を見ると、心からそう思った。

「だーからもっとこうリアクションとかしろよ!…あれ?ってーか今、あんた笑った…?笑ったよな?!」

追求する東海林を無視してから揚げを頬張る。少し揚げすぎだったが、普段料理らしい料理をしない彼が、自分のためにそれを作ってくれたことがうれしかった。

「ちょっと!なぁ、今笑ったよな?ほら、もう一回!もう一回だけでいいから笑ってみろって!な?」
「嫌です。業務時間は終了しました。私に、もうあなたの指示に従ういわれはございません。」
「おまッ…!お前がいつ俺の指示に従ったよ?!えぇ?」
「お自給の分はきっちりと働きましたが、何か?」
「ま、まぁあんたの働きっぷりは認めるよ。3ヶ月前の宣言通り まぁ、社長賞とまではいかないけどさぁ 俺が本社に戻れるように動いてくれてたんだろ?…ありがとう」

思わず、まっすぐな彼の視線から目を逸らす。
見てはいけない…今見ると、別れがまた辛くなる―…

「…バっカじゃなかろうか!私は別にあなたのために動いていたわけではありません。お自給の分の働きをしたまでです!」

言い切ると、傍にあったグラスを取り、ワインを飲み干した。
精一杯の照れ隠しだった。いつものように、東海林が言い返してくるのを待ち構える。だがそれは、違う形で返ってきた。

「フンっ…可愛くね〜女だな。でも俺はそんな女に惚れちゃったんだよな〜…」

彼は、背に体重を預けたまま、天井を仰ぎ見ている。
どう答えればいいのか分からなかった。この男はいつもそうだ。人が思いつめて言えない言葉を正面からさらっと言ってのける。この男はズルい。

「…俺、考えたんだけどさぁ、俺がずっとお前と一緒に居られる方法」
「……」
「やっぱりこれしかないと思うんだよな〜…」

彼はスーツの内ポケットから小さな箱を取り出し、開けた。

――婚約指輪。

「冗談はそのくるくるパーマだけにしてくださいと、以前にも申し上げたはずですが。」
「――…前にも言ったけど俺は本気だ!俺と結婚してほしい…!!」

視線がぶつかる。――二度目のプロポーズ
彼はどんな思いで私に二度も結婚を申し込んだのだろう。
でも…断らなければ。この人にはこの人の人生がある。私にはそれを奪う権利はない。どこかの頭取の令嬢と結婚した方が、幸せな人生を送れるに決まっている―…
そんなことを巡らすうちに、東海林が私の隣に座った。指輪を持っている。

「…結婚しよう、とっくり …いや、…春子」

初めて呼ばれたファーストネーム。

「な…?」

思いつめたような表情の東海林。でも、ここで振り切らなければ――…この人のためにも

「駄目です」

言った瞬間、東海林の表情がみるみるうちに曇る。こんな顔をさせたい訳ではない。でも―…

「どうしてだよ…?!」
「あなたのことが好きではないからです」

不意に体に衝撃があった。気づいたときには、東海林に抱きしめられていた。大きな背中――温かい

「―…じゃあなんでそんな顔してんだよ?」

耳元で響く優しい声。
瞬間、温かい滴が一筋頬を伝う。
人前で泣いてはいけない。弱さを見せてはいけない。こと、この男の前では――…
悟られないように涙をぐっとこらえる。一滴の涙は、東海林のスーツに染み込んで消えていった。まるで、悲しみを吸い取ってくれるかのように。

今日は月がやけに明るい。
彼の腕の中で、窓越しに見える月だけが真実を知っていた――






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