貴婦人の香り
村井修平×村井絹代


「まあ、お父さんが明後日お帰りですって。」
「ほんと?やったー!」

電報で、夫の急な帰省を知った絹代の心はときめいた。子供たちも
大喜びではしゃぎまわり、大好きな父親に会える日を心待ちにした。
村井家の主人である修平は、大阪に単身赴任している。鳥取と大阪は遠く、
修平は数ヶ月に一度帰ってくるかどうかのさびしい家庭だった。妻の絹代は、
9歳を頭に3人の男の子を育てながら、留守を守っていた。

修平が帰ってくる当日、絹代は家中をそうじし、髪や化粧をととのえ、
ごちそうを用意して待っていた。子供たちも、遊びにも行かず、通りに出ては
修平の帰りを今か今かと待っていた。

・・・ところが、午前中早くに汽車が着くはずが、昼近くなっても帰ってこない。
雄一と茂がしびれをきらし、その辺まで様子を見に出て行った。
さらに1時間ばかりが経ち、やっと子供たちにまといつかれながら修平が
玄関に姿を現した。絹代が柳眉をさかだてて詰問する。

「汽車はとっくに着いとるのに、何をしとられたんですかっ?」
「いや何、ちっと知りあいに会ってな。つい話し込んでしもうて。」
「知りあい?お父さん、ゼゲンのおばさんと今日初めて会ったんでしょ?」

茂が無邪気に暴露する。

「わっ。お前ちっと黙っとれ!」

絹代の怒りが爆発した。

「あなたっ!あげないかがわしい女と!どこで会ったんですか?!」
「いや何、こいつらがあんみつを食べたいと言うもんだけん・・・。」
「うそだー。おばさんが店に入ってったから後をついて入ったんだよ。」

茂が泣きそうになりながら反論する。
よく怒るからイカル、とあだ名した母の怒りが恐ろしかった。
絹代はくるりときびすを返すと、台所から塩の壷をひっつかんで来て、

「汚らわしい!あれはやり手婆ァですよ!あげな女と!」

わしづかみにした塩を、修平と子供たちの頭から浴びせかけた。

「やれやれ。帰ってくるなりこれか・・・。」

修平は、頭髪からまだ落ちてくる塩をはらいながら、家着に着替えた。

(それにしても、ちょいと渋皮のむけた、ええ女だったなあ。あの女の
亭主は、女衒(ぜげん)なのか・・・。やけにあだっぽいと思ったが、やっぱり
堅気ではなかったな。)

修平は、駅から家に向かう途中、この辺では珍しい垢抜けた女を見かけ、
子供たちが知っていたのをさいわい、あんみつ屋に入るのを追いかけて入り、
親しく口をきくようになっていた。

絹代は、昼食の後片付けをしながら、頭の中は怒りでいっぱいだった。

(まったくあの人ときたら・・・。美人ときたら見さかいがないんだけん・・・!
大阪でも、私がおらんのをさいわい、いったい何をしとるんだか・・・!)

絹代はなさけなくなった。だいたい、こんな風に離れて暮らさなければ
ならなくなったのも、修平が生来のなまけぐせを発揮して、前の会社をクビに
なったせいだった。大学出の勤め人といえば、女中の一人や二人、住み込みで
家に置けるはずだが、その余裕もなく、ばあやが一人通いで来てくれるだけ。
絹代は、いたずらざかりの3人の男の子を抱え、孤軍奮闘していた。
それでも、数ヶ月ぶりで修平に会えると思えば、胸をときめかせ、
普段はする余裕のないおしゃれをして待っていたというのに・・・。

それから、ぷんぷん怒りながら修平の背広を片付けた。使ったハンカチーフを
取り出そうとポケットを探ると、一枚の紙片が出てきた。

「ミツコS氏に謝礼。」

と書いてある。

(女の名?謝礼って?まさか身請け??)

絹代は目の前が真っ暗になって頭の中がぐるぐるまわった。

(まさか。そげなお金はないはず・・・。)

だが、油断はならない。修平というのは不思議な男で、妙に人に好かれる
ところがあり、ヤマっ気も多く、わけのわからない事業にさそわれては、
ひともうけすることがあった。もちろん、そんなお金はいつの間にやら
雲散霧消してしまうわけであるが・・・。
絹代は、もう近所の女衒の女房のことなどどうでもよくなってしまった。
紙片をにぎりしめていたことに気づき、しわを伸ばして元に戻すと、
最大級に悪い想像になやまされながらその場を去った。

修平は、絹代の怒りには慣れたもので、平気の平左で昼食をたいらげ、
くつろいで新聞を読んでいた。
・・・勝手口に人の気配がし、絹代が応対しているのが聞こえる。
どうやら子供らしい。修平は気になってのぞいてみた。

「はい・・・はい。じゃあ、切手を貼って出しておくからね。」
「うん。・・・おばちゃん、だんだん!」

きれいな顔をしているが、着物はみすぼらしく、幸薄そうな女の子は、
にっこり笑うと、あわてて帰って行った。

「ありゃあ、売られて行く子ですよ。」

ばあやが、いつの間にか後ろに立っていた。

「あの女衒の野郎が近在の村から買い集めてきては、少しの間ここに置いて、
いろいろ言い含めてから売りに行くんですよ。里心がつくからって、
親兄弟に手紙も書かせんのですよ。だけん、奥様がああやって切手を貼って
出してやったり、字の書けん子には代筆してやったりしとられるんです。」
「ふーん、そげか・・・。」
「ああいう子の中には、元はええ家だったのが落ちぶれて売られてきたのも
おるんですわ。奥様も、ご自分の家が没落したけん、他人事とは思われん、
とおっしゃって・・・。」

(だから、俺が女衒の女房と親しくしたのが、あげに気に入らんかったのか・・・。)

修平は、絹代の意外な一面を見た気がした。

夕食時。

「ほほう。カツレツか。はりこんだな。」

洋食好きの修平のために用意したカツレツに、子供たちも大喜びで相伴に
あずかった。絹代はせっかくのごちそうものどを通らず、黙りこんでいる。

・・・両親の間にただよう不穏な気配に、子供たちはみやげのチョコレートを
大事そうに胸に抱いて、早々に部屋にひきあげた。

風呂からあがった修平は、探し物をしていて背広のポケットの紙片をみつけ、
それがしわになっているのに気づいた。

(ははあ、不機嫌の原因はこっちか。)

寝間に戻ると、寝巻きに着替えた絹代が髪を梳いている。額から耳にかけて
ウェーブをかけた髪が顔にかかり、泰西名画のようにうつくしかった。

「その髪はどげした?今流行りの耳かくしだな。」
「・・・・・・。」
「俺のためにおしゃれしてくれたんだろ?よう似合っとる。」
「・・・知りません!」
「お前はいくつになっても可愛い女だの。ヤキモチなんぞ焼いて。
・・・覚えとるか?お前と初めて情を交わした時、俺たち似合いの夫婦だって
言うたこと・・・。」

忘れたことなどなかった。紆余曲折があったぶん、むすばれた時のうれしさは
ひとしおだった。自分のような女を、可愛いと言ってくれるのは修平だけだ。

「お前はちっときついが、ここの熱い女だ。」

修平は、絹代の胸の真ん中をこぶしでぐっと押した。

「俺のようなふらふらもんには、お前のようなしっかりした女房がちょうどええ。
子供やちも、立派に育っとる。お前のおかげだ。」

絹代は、びっくりして修平の顔をまじまじと見守った。

「だけどな、お前にも、俺以上の亭主はおらんと思うぞ。お前のような
暴れ馬を、上手に乗りこなせるのは、俺ぐらいなものだ。
それにな、俺がお前の新しい髪形に気づいてやれたのも、俺がご婦人に
興味をいだいとるけんだ。普通は気づきもせんもんだぞ。」

修平は、旅行かばんから、包装紙に包まれた小箱をふたつとり出すと、絹代に
手渡した。

「西洋では、夫婦が結婚した日を記念日にして祝う習慣があるそうだ。
ちっと遅くなってしまったが、俺たちも、今年で10年めになるな。」

忙しい生活の中で、そんなことを考えたこともなかったが、たしかに修平と
結婚して10年が経っていた。
修平にうながされ、贈り物を開けると、ひとつは流れるような細工の美しい
香水瓶、もうひとつは何やら横文字の書かれた外国の香水だった。

「この瓶はな、昔、昇三おじがパリーから送ってくれたもんだ。
『大事な女にやれ。』と言うてな。」

大事な女に・・・、絹代はうれしくて、香水瓶のうつくしい模様を手でなぞった。

「それに入れる香水をさがしておったんだが、ちょうどええのがみつかってな。
これは『ミツコ』と言うて、ウィーンの伯爵夫人になった日本女性の名を
つけたそうだ。舶来の品を扱っとる知り合いにたのんで取り寄せてもらったんだ」

・・・あの紙切れは・・・。絹代はいろいろ邪推した自分が恥ずかしくなった。

「・・・においをかいでみても、ええでしょうか?」

修平が封を切ってやると、絹代は栓をあけて少し指につけ、顔に近づけた。

「さっぱりしとって、ええ香り・・・。」
「そげだろ?たおやかな中にも、気品があって、まさに伯爵夫人という感じだ。」

絹代は、香水のついた指を、着物の袖にしのばせた。

「ああ、つけ方を教えてやる。こげして血の流れとるところにつければ、
香りがたつんだ。」

そう言って、修平は絹代の首すじに、指で数滴の香水をなじませた。
やさしく繊細な中にも、気品のある香りにつつまれ、絹代はうっとりと目を閉じた。

「香水はな、つける人によって香りが変わるんだ。闇夜にも、誰なのかわかる
ほどにな。」

修平が、絹代の耳の後ろに鼻をつっこむようにして大きく息を吸い込んだ。

「・・・お前のは、かわいい香りだな。」
「・・・あなたのは、浮気ものの香り・・・。」

絹代は、修平に耳元でささやかれるだけで四肢にしびれるような快感がはしるのを
我慢しながら、ふるえる声で強がりを言った。

「また、そげなかわいくないことを・・・。どうなってもしらんぞ。」

修平は、絹代を抱き倒しながら、ひさしぶりの逢瀬に、力がみなぎってくるのを
感じていた。

(どげな風にいじめてやろうか・・・。)

まとっているものを脱がせば、下には熱い肌身が息づいている。それを知っているのは
修平だけだった。修平の足跡しかついていない雪原のような肌と、その中に燃えている
熱い心は、すべて修平だけのもの・・・。
自分だけの花に、香りをまとわせて、修平は絹代をこころゆくまで愛でた。

(お前は俺の腕の中でだけ、かわいくなればええ。)

風変わりなおんなと一緒になったものだ・・・。だが、だからこそ人生は面白い。
こうして愛でてやって味わえば、かぎりなく優しくたおやかで、情趣ぶかい。
だが、絹代のなかには、キリッと一本、スジが通っている。
この貴婦人の香りのように・・・。


「ぁ・・・あああぁっ・・・」

兄や弟の寝ているかたわらで、自作の絵巻物に色を塗っていた茂は、遠くで
女のなき声を聞いたような気がして、筆を止めた。

「なんだろ?・・・妖怪かな?」

妖怪といえば、今日のイカルはなんだか変だった。いつもつけないような白粉を
はたき、髪にコテをあててカールさせては、鏡の前で百面相をしていた。

(面妖な・・・。でも、そういえば、イカルって女だったな。)

今ごろ母親の性別に気づいた自分にちょっとおかしくなって笑ったが、またすぐ
絵巻物に没頭していった。
後年、父に似ずまったくの朴念仁に育つ茂が、男女の機微を少しでも解する
ようになるまでは、よき伴侶を得る数十年後を待たなければならないだろう。






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