福の神の算段
村井茂×村井布美枝


かじかむ指に息を吹きかけつつ、折角風呂の掃除をしたのに、肝心の火種が点かない。
仕方なく茂を呼び出してそこらじゅうを見てもらったものの、

「分からん」

と、簡単に匙を投げられてしまった。

「冬なんだけん、1日くらい風呂に入らんでも死にはせん。明日プロパン屋に来てもらったらええ」
「あたしたちはそれでもええかも知れませんけど…」

布美枝が口籠もっていると、やがてどやどやといつものご一行様が風呂桶を抱えてやってきた。
布美枝が気にかかっていたのは、このご一行様、つまり茂の兄、雄一一家のことだった。

家に風呂のないこの一家は、ほとんど毎日弟の家の風呂に浸かりに来る。
もう慣れっこになったとはいえ、この家に来た当初は随分戸惑ったことのひとつだ。

「水風呂なら入れんこともないが、真冬の今は止めといたほうがええな」

笑いながら事情を話し、茂は子どもたちの頭を撫でた。
甥と姪は、きゃっきゃと笑いながら茂に飛びついて遊ぶ。

「おじちゃん、戦闘機描いて」
「私、お姫様〜」

健太と波子の可愛らしいおねだりに、茂は仕事の手を止めて相手をしてやっていた。

比較的茂は子ども受けがいいのではないかと、布美枝は密かに思っていた。
子ども向けの漫画を描いている所為もあるのか、甥や姪には随分懐かれている。
近所の子どもにも「絵描きのおじさん」と言われているのを耳にしたことがあった。
スケッチブックを持ってうろつき、ときおり絵を描いているというのが目立つのだろう。
普段は無口でおよそ愛想が良いと言える類の人種ではない茂の、
子どもたちの前で見せる自然な笑顔が、布美枝はとても好きだったし、
むしろそんな表情を引き出せる子どもたちを少し羨ましくも思っていた。

「仕方ない。銭湯に行くか」

腕を組んで苦い顔をしていた雄一が、佐知子を振り返る。佐知子も頷いた。
子どもたちがそれを聞いて、にわかに活気付く。やはり広い風呂は嬉しいのだろう。
それぞれがリクエストした絵を茂から受け取ると、早く早くと両親を急っつく。

「…たまには布美枝さんたちも一緒に行かない?」

波子に手を引かれながら、佐知子が布美枝を覗う。
すると雄一が

「おう、そうだな、一緒に行くか。2人分の銭湯代くらい、出してやるぞ」

まるで渋る様子もなく言ってのけた。

「ええ?!」

ふたりは同時に叫んだ。そして顔を見合わせる。

「な、なんだなんだその、鳩が豆鉄砲喰らったような顔は?!」
「兄貴がそげなことを言いだすとは思わんだった」
「人を守銭奴みたいに言うな!なあ?」

と、雄一は佐知子を見る。しかし、佐知子も茂たちと同じ顔をして夫を凝視していた。

「お前もか!」

見栄は張るけれど、身内にはとにかく遠慮なくけち臭さを発揮する雄一が、
たかが銭湯代とはいえ、自ら払ってやると言い出したことには、布美枝も大いに驚いた。

「ったく、汗水垂らして働いた金で風呂を馳走してやろうという、
兄の温かくも広いこの心が、お前らには解らんのかなあ」
「とうちゃんボーナス貰ったもんな」

健太が横からしたり顔で入り込んでくる。

「そげか。そりゃあ懐が温いはずだな」
「馬鹿野郎、スズメの涙みたいなもんだわ」
「ああ、ああ、わかったわかった。そげなら今日は兄貴に甘えさせてもらうわ」

そう言って茂は布美枝に目配せをした。
本当に機嫌を損ねる前に、この展開に便乗させてもらおうという、
苦笑の入り混じった茂の表情が可笑しくて、布美枝は準備をしながらクスクスと笑った。

― ― ―

しかして布美枝は戸惑っていた。
佐知子の身体つきは思っていたより均整がとれていて、出るところは出、締まるところは締まっている。
それに比べて平べったい自分の裸は、色の白さが貧相さを増して見せ、何とも情けなかった。

佐知子が手際よく波子の世話をしている横で、布美枝はもじもじと肌を撫でていた。

「広いお風呂はいいでしょう。あ、茂さんの家のが狭いって文句言ってるわけじゃないけど」

慌てる佐知子に苦笑いながら応じる。
なるべく胸は見られないよう、隣にやや背を向ける恰好で身体を洗った。
すると、洗い終えた波子が布美枝の背中を流してやると申し出てきた。

「だんだん」
「それってありがとうって意味でしょ」

布美枝にも懐いてくれる波子は、年の離れた妹のいずみの幼い頃を思い起こす。
布美枝は目を細めて背中を波子に任せた。

「おかあちゃんはあとでしてあげるからね」
「女の子はええですね。色々お手伝いもしてくれそう」
「じゃあ早く産めばいいのに」
「え…」

おそらく佐知子は何気なく言ったのだろうが、布美枝が瞬時に真っ赤になったのを見て、
けらけらと笑い始めた。

すると後ろから波子が心配げに声をかける。

「おばちゃん、背中、虫にさされてるよ」
「え?ほ、ほんと?」
「うん、赤くなってる。いち、にい…ろく、なな!7個!」

もう正月も近いというのに、蚊やダニなどいるだろうか、それとも面皰?

「痛いの?」
「ううん、全然気づかんだった。変だねえ」

波子をふり返りつつ、背に腕を廻してみた。
すい、と前方を覗き込んできた波子が、布美枝の胸元を見て小さく叫ぶ。

「おばちゃん、こっちもだよ」
「え?」

見ると、布美枝の胸元や乳房に点々と、紅色の痕が散らばっていた。

「―――――っ!」

風呂に入って熱に温められた所為で、その痕跡を白い肌の上に浮き上がらせた。
まさしく、それは茂が辿った経路。おそらく背中にもあるという赤い痕も…。

「あ、あの、これは…」

ちらりと佐知子を見ると、肩が小刻みに震えている。
あえて聞こえていないふりをして、顔を背けた向こう側で笑っていた。

「もぅっ…お、お義姉さんっ…」

湯あたりして逆上せたかのように、布美枝は真っ赤になって佐知子を揺すった。
笑い上戸の佐知子は、不思議顔の波子をそのままに、いつまでも笑っていた。

― ― ―

「そんなに仲がいいならそろそろできたっておかしくないのにねぇ」

湯船に浸かりながら、佐知子はしみじみと呟いた。
それは布美枝も常々思っていたことで。
結婚して以来、もう数えきれないほど褥を乱してきた熱い情事の末に、
もたらされてもよいはずのものは、なかなか訪れてはくれなかった。
茂はそれについて何も言わなかったし、布美枝も当事者の夫はもちろん、
誰に対して相談することもできずにいた。

「あたしの身体がおかしいのかも知れません…。もう30だし」
「年のことを言うなら茂さんは10も上でしょう。自分ばっかり責めるのはよくないわ」
「けど…」

ぷかぷかと浮かんで遊ぶ波子の無邪気さを愛しく見つめながら、布美枝は切なくなった。
甥や姪でさえ、あんなに楽しそうに相手をしてやる茂なのだ。
それが我が子であれば、いかばかりかと想像すると、
いつまでたってもそれを実現できない、我が身を責めてしまいたくなるのも自然だった。
三海社の仕事がここのところ順調で、家計にも少しずつ余裕が出てきたこの頃では、
そのときがいつ来てもいいようにと、密かな貯蓄も始めたというのに。

「きっと…できたら喜んでくれると思うんです」
「そうねえ。健太や波子にも優しいからねえ」
「だけん…余計」
「茂さんとは話したりしてるの?」
「いえ、何も」

考えればどうしようもなく締め付けられる胸の内が苦しく、
打ち消すように布美枝はざばっと湯で顔を覆って、大きくため息を吐く。

「…病院に行ったほうがええんでしょうか」
「そんなに気負わないの。独りで考えてたってしょうがないじゃない。これは夫婦ふたりの問題よ」

だからといって、茂にどう切り出せばいいのか、布美枝には皆目見当がつかなかった。

「子どもは授かりものなんだから。それに…」

佐知子はちらりと布美枝の胸元を見て、ふふ、とほくそ笑む。

「できてからじゃ、そこまで激しくはなかなか…ねえ」
「え、ちょ…も、もぅっ!」
「意外ねえ、本当に。持ち上げるわけじゃないけど、本当に布美枝さんが来るまでは
女っ気なんてこれっぽっちもなかったのよ。私も義理ながら姉として心配してたんだから。
でも良かったわ。茂さんがこーんなに情熱的な人だったなんて」
「………」

強い接吻の痕をじろじろと見ながら、佐知子はいたぶるようにして冷やかした。
怒りつつも照れくさく布美枝は、しかし佐知子には少し感謝していた。
気楽になりなさい、という義姉の言葉に、僅かばかりでも気持ちは救われていた。

やがて、先ほどは居なかった靖代が番台に座ると、布美枝を見つけて声をかけてきた。

「布美枝ちゃん、先生たちもう出て待ちくたびれてるわよ」

佐知子と波子、布美枝は顔を見合わせて微笑んだ。

― ― ―

「初めてだねえ、布美枝ちゃんがうちに来てくれるの。風呂が壊れたときだけじゃなくて、
もっと来なさいよね。まけてあげるからさ」

豪快に笑う靖代に、申し訳なく頭を下げて、布美枝たちは風呂屋をあとにした。
店先で雄一一家と別れ、茂とふたりとぼとぼと家路につく。

「中森さんにも声をかければ良かったですねぇ」
「あの人も色々節約しとるようだからな。兄貴がもう1人分出すと言えば誘ったんだが、
さすがにそれは無理だろうと思ってな」

と茂は苦笑した。

昼間は賑やかな商店街も、夜の帳が降りれば途端に静かになる。
茂とふたり歩く靴音だけがやたら響いて、無言の空気を際立たせる。
佐知子にからかわれた肌の朱色を思い出し、布美枝が独りで勝手に照れていると…。
ひょいっと、茂の右手に左手を掬われた。

「えっ」

冷たい指が布美枝の指と絡んで、ぎゅっと強く握られる。
突然のことに驚いて、けれど反射的に布美枝も思わず握り返してしまった。

「あ、あの…」

嬉しいけれど戸惑う布美枝が、おずおずと茂を覗う。
茂は夜目に慣れないまま、じっと目を細めて、繋がれたまま布美枝の手を凝視していた。

…かと思えばそのままの姿勢、表情で

「あんた、爪が伸びとるな」

と言い捨て、同時に握っていた手もぽいっと投げるように解放した。

「…え?」

拍子抜けした布美枝は、しばし呆然とその場で佇んでいたが、はっと気づいて慌てて茂を追った。

「あの…」

追いついて、改めて茂を横顔から覗う。
すると何やら頬を弛めて、くっくっと笑っていた。

「…?」

からかわれたのだろうか、いつものように?
布美枝が少し唇を尖らせると、茂はあはは、と笑いだした。

「何ですか、もぅ!」
「いやなに、兄貴に目ざとく見つけられたもんでな」
「…お義兄さんに…?何を…ですか?」

茂は自分の肩のあたりを指差して、

「猫の爪痕、だ」

いたずらっぽく言った。

「…猫?」
「肩のあたりとな、背中を引っ掻かれとるらしい」
「え、いつの間に?」
「うちに猫はおらんはずだがな。けどよう考えたら1匹おったわ。大きくて白いのが」
「え?え?あたし、知りませんよ?いつの間に住みついとったんですか?」
「…普段は物静かに過ごしとるがな、夜になると布団の中で甘ったるい声でよう啼く。
耳をいじったりあちこち撫でたりしとったら、そのうち俺の肩に引っ掻き傷をつけるんだわ」

そこまできて、布美枝の顔がみるみる真っ赤に染まっていくのが、
闇の中でも見て取れるようになった。
それを見て茂はますます可笑しくて堪らなくなった様子で、にやにやと続けた。

「引っ掻かれるのは俺の所為だと兄貴は言うとったがな。けど、昼間の猫からは
想像がつかんくらいに、夜はずいぶんと激しい猫なんだな、とも言うとったぞ」
「も!やめてください…っ!」

義姉だけでなく、義兄にまで、夫婦の睦み事の名残りを見つけられ、
次にふたりに会ったときに、どんな顔をすればよいのか分からなくなってしまった。
茂はというと、そんなことはどうとも思っていない素振りで、「爪切っとけよ」と笑っていた。

先を行く茂の背中を追いつつ、火照った頬に手を宛てる。
意外にも自分の手は温かく、先ほど握った茂の手の冷たさを思い出した。

「貴方」

振り返らないまま、背中で「うん?」と返ってきた。
後ろから、今度は布美枝が茂の右手を掬った。やはり、氷のように冷たかった。
夫の手は温かいのが常だと思っていた。随分待たせた証拠だろうか。

「…なんだ」

少しだけ虚をつかれたらしく、小さく驚いた茂が布美枝を見下ろす。

「手が…冷たい。すみません、長いこと待たせてしまって」

はあっと息を吐けば、白い空気が茂の右手を包んで消えた。
たったひとつのこの右手は、なんとしてでも守らなければ。
しもやけや、小さな怪我ひとつ、絵を描く負担になりやしないか。
冬の冷気にかじかんだ茂の手を、布美枝は自らの頬に宛てて目を閉じた。
その冷たさが、蒸気した顔に心地良く、思わずすりすりと頬ずりした。

布美枝の頬に宿っていた熱が、やがて節ばんだ茂の右手に移っていく。
ゆっくり目を開けると、じっとこちらを見る茂の視線とぶつかって、
はた、と我れに返った布美枝は自分の行動を振り返った。

くすくすと笑う茂を、再び頬を染めて八の字眉で見上げる。

「…本物の猫みたいだな」

口元に笑みを保ちつつ、頬に置いた手のままに、ふわりと茂の唇が降りてくる。
まるで口下手な男の、「ありがとう」の言葉のような、温かく、優しい、口づけ。
目を閉じて、安心して闇に身を投じる。
触れ合った場所から伝わる温もりだけで、布美枝は全てを茂に委ねられる…。

― ― ―

床を整えた途端に、茂の胸へ誘われた。それまで平然と外を眺めていたくせに。
ずるい、と思いつつ、早くも唇に翻弄される自分自身に、腹の中で苦笑した。
髪がまだ濡れていて、冷たさが茂を冷やしてしまわないだろうか、密かに案じていると。

「…冬の風呂屋はいけんな。せっかく温もっても家に着くまでにこげに冷たくなる」

布美枝の髪にも唇を滑らせながら、耳元で愚痴めいた。

「すみませ…、っん、少し、乾かし…」
「ええ。すぐに温もる」
「ゃ…」

言葉を奪われて、代わりに彼の舌を与えられる。
腔内で絡み合い、音を立てて互いを求めあう。荒い息とともに、交換する声にならない睦言。
淫らに奏でる吐息と、水音。興奮のうちに零れる喘ぎ。
ふわりと組み敷かれて、首筋に茂の鼻が沿って下る。
顎髭がざらついて、肌が反応して粟立つ。
舌先でちろりと舐められると、さらにぞくぞくした。

「待…っぁ…爪…まだ切ってな…」
「あとにせえ」
「でも」
「猫は爪を切ると調子を崩すらしいぞ?」

それはヒゲじゃなかったかな…と思いつつ、目を閉じると、
今はもうすっかりいつもの温かさを取り戻した茂の右手が、
寝間着の上からゆっくりと、布美枝の乳房を揉みあげてくる感触に身悶えた。
一気に身体をかけ昇る、ふしだらな熱に侵され始める。
確かに今更爪を切るような段階でもなさそうだ、としみじみ反省した。

雄一のものを借りたのだろう、いつもと違う石鹸の香りがする茂の髪にくすぐられ、目を細める。
鎖骨を啄まれる鳥の音のような響きに、大きく息を吸って充足感を得る。
愛する男を胸に抱き、その情熱で以て愛される至高の悦びに、布美枝は全てを投じようとした。

―――――『…そろそろできたっておかしくないのにねぇ』

突然脳裏を過ったのは、先ほどの佐知子の言葉だった。

年が明ければ、茂と結婚して1年になる。
何度も何度も愛し合って、幾度となく注がれた熱い種子を、
実らせることもできずにこのまま、ただ彼に愛されるだけの身体で良いのだろうか。
いつもいつも、熱情のままに溺れて流される、それだけの女で…。

布美枝の喉がごくりと鳴った。
そこへ口づけた茂が、ふと強張ったままの表情の布美枝に気づいた。

「…どげした」

怪訝な顔で覗き込まれ、布美枝は慌てて首を横に振った。
しかし、付け足すように無理矢理頬を弛ませたのが余計だった。
ますます茂はむっとして、布美枝を睨み付ける。

「なんだ。嫌なら無理するな」
「違…そげなこと、ないです…」
「なら、なんだ」
「…」

黙り込んだ布美枝にため息を吐き、茂は姿勢を戻した。
がしがしと乱暴に頭を掻いて、胡坐に組んだ脚の上に頬杖をついて、苦い顔をしている。

「すみません…」

布美枝もゆっくりと身を起こし、やや乱れかかった寝間着の合わせを直した。

「考え事か」

責めるというよりは、いじけた調子で投げられた茂の言葉に、
少しの間考えてから、やがて布美枝はこくりと小さく頷いた。

「あの…」

布美枝は佐知子の言葉を思い出していた。

――――― 『夫婦ふたりの問題よ』

茂はどう思っているのか、知りたかった。
打開策があるとするなら、彼が握っているような気がした。

「…貴方は…考えたことありますか。こ、子ども…の、こと」

尻すぼみに俯いてしまったので、茂の表情を覗うことはできなかった。

「もう、い、1年…近くに、なるのに、あたし…たち、全然…で、できんで…」

けれど、茂の返事もすぐには返ってこなかった。
何とも思っていないとか、むしろそんなものは邪魔だとか、そういう答えが返ってきやしまいか。
そう思うと、自分自身の鼓動の音が、やけに大きく聴こえる気がした。

やがて静まり返った部屋で、しゅん、と小さく茂が鼻をすすった。
それを合図に、ふっと布美枝は顔を上げた。

「気にしとるのか」
「あたしが…!」

思わず茂にしがみついた。支えがないと、どうにも不安だった。

「…あたしが、悪いのかも知れません。ちゃんと調べてもらったほうが」

吐精を受け止める器はあっても、それを育む胎内が機能しないというのは、
妻として、女として嘆かわしい思いだった。

「そこまでせんでも」
「けど…。けど…お義兄さんだって、光男さんだって、お子さんがおられるのに」
「順番の問題だわ。俺は一番結婚するのが遅かったんだけん」
「でももう、何回も…ずっと、あたし、貴方にその、…して、い、いただいとる、のに…何度も。
それに、や、やっぱり…いつまでも子どもがおらんと、境港のご両親にも、嫁として顔向け出来んし…。
周りにも変に思われるんじゃないかと、思って」

布美枝の必死さは伝わったのか、茂はふうと肩を落とし、背中を丸めた。
腕に縋る妻を見下ろし、ほんの少し口元を持ち上げてみせた。

「あんたが生真面目なのはよう知っとるけどな、別に家だの世間だのに制限されて暮らす必要はない。
子どもがおらんならおらんで、なんも困ることはないし、後ろめたく思うこともない」

自分を気遣ってくれているのだろうか。布美枝は茂の優しい言葉に、逆に居心地の悪さを感じた。
子どもがいなくてもいい…。それが茂の本心なのだろうか。

「欲しくは…ないですか」

肯定されたらどうしようと思いつつ、つい問うてしまった。

茂はふむ、と天井を仰ぎ、照れくさそうに口籠った。

「まあ、どげなもんかは、見てみたい気はする」
「…」
「だけんといってあんたを責めるつもりはないぞ。俺に原因がないとも限らんのだけんな」

茂に庇われれば、それにつれて自分が歯痒い。
夫の命を受け継ぐことができないこの身を、そんなに優しく労わらないで欲しい。
ぽろぽろと零れる涙は、哀しいというより悔しい味がした。

「…そげに頭でっかちに悩むことない…」

寝間着の裾で、乱暴にごしごしと顔を拭われる。そんな茂なりの思いやりが、むしろ胸に痛い。
縋りついた腕から、広い胸に額を宛てて声を殺した。
背中を擦る右手の大きさに、いつまでも甘えたままで。

「こう考えたらどげだ」

耳元で囁かれながら、頬に唇が触れた。
撫でられる髪とともに、顔を掬われる。

「あんたも俺も、まだ未熟なんだ、多分」
「み…じゅく?」

鼻をすすって、茂の言葉に首を傾げる。

「子どもを持つということはすなわち、父親と母親になることだ」
「…はぃ」
「あんたは未だにそげしてすぐにグズグズ泣きだすし」
「む…」
「俺は毎日漫画のことばーっかり考えとる」
「…はい」
「こげな調子ではまだ多分、子どもなんぞ到底無理だと、福の神が算段しとるんだろ」

にっと笑った茂の顔に、布美枝もつられてようやく微笑んだ。
それにほっとしたのか、茂はまたも乱暴に布美枝の頬を抓って歯を見せた。
子どもにするように、布美枝の頭を撫で、

「慌てんでええ。今はただ…」

言いかけて、口を噤む。

「?…ただ?」

乱れた髪を手櫛で直しながら、中断された言葉を待った。
が、続きの代わりに力強く抱きすくめられ、小さく驚いた。
ずっと何も言わない茂を、その胸の中から仰ぎ見る。
けれどそれすらも許されず、ぐっと頭を肩に埋め込まれた。

「…」

布美枝のものではない、温かな鼓動の響きを感じた。
茂の左胸が、忙しく振動を伝えていた。

「ぁな…た?」

肩に埋められた唇のまま、籠った声に少しだけ反応があった。
ゆっくりと解かれた身体。けれど瞳はそのまま、眼前の男に縛り付けられて…。

「今は…」

近づく唇に、緩やかに目を伏せる。
唇が触れると同時に、ようやく届いた低音は確かに。

「ただ、あんたとふたり…」

―――――― それだけで、ええ…。

敷布に沈んでいく布美枝の身体から、重苦しいわだかまりは霧消していく。
茂の体温が包み込む、不可思議な空間の中では、もう何も考えることはない。出来ない。
煩悩は必要ない。ただ本能のみで、堕ちていけばいいだけだ。

唇、頬、耳を辿り、髪の絡みつく首筋へ、茂の口づけは流動していく。
こんな間近で夫の顔を、しかも夜の闇に映える獣の表情を見れるのは今しかない。
けれど、あまりに淫らなその視線に、捉えられるのも少し怖い。
どうしても伏せてしまう布美枝の瞼の上で、ちゅ、という軽快な音がした。

「寝るな」
「ね、寝とりませんよ」

茂の軽口は、実はひとつに照れ隠しのためということを、布美枝は密かに知っていた。
きっと先ほどの台詞を、呟いてしまった今になって悔やんでいるのだろう。
布美枝が微笑うと、口を曲げて目を逸らした。とても年上には思えない仕草が愛しい。
茂はいじけた表情のまま、布美枝の腰に巻き付いた帯を荒っぽく解いた。

「あんた、子どもがどうの言う前にもうちっと太れ?」
「え?」
「こげな細い腰では、お産に向いとらんと思うが?」

見下ろす恰好のままするりと、茂の右手が寝間着に入り込んで、布美枝の腰を撫でた。

「…ゃっん!もぅっ!」

下半身を捩った布美枝を見てほくそ笑み、再び覆いかぶさった茂の唇は布美枝の耳元へ。

「あ…ふ…」

うなじ、耳の裏、布美枝の薄い皮の上を、ぬるぬると舌が這い廻った。
外耳の縁を咥えられ、軟骨を舌でなぞられる。
茂の荒い呼吸が、鼓膜に直振動を与え、ぴちゃぴちゃと舐られる音が、直に脳を刺激する。

「ん…ぁぁ…ん」

右手はいつの間にか乳房を寄せて持ち上げ、先端の桜色をいたぶっている。
口づけは胸元へ降りて行き、ちくちくと柔らかな場所に吸い付かれた。

(また…)

ぼんやり見下ろしながら、布美枝は佐知子にからかわれたときのことを思い出す。
自分の印を刻み、満足げにそれを確認する茂が可笑しくて思わず噴きだすと、
目ざとく茂が布美枝を睨み上げた。

「なんだ」

文句あるか、という顔が幼さを醸していて胸がきゅっと鳴る。

「ふふ…あの、ね…?」

風呂屋での一件を手短に話した。
波子を誤魔化すのに、佐知子とふたり大慌てになったこと。
佐知子が茂を、意外にも情熱的な人だと言ったこと。
密かにあのあと、靖代にも指摘されたこと。

「風呂屋の女将さんにもか…。あの人は拡声器みたいなもんだけんな」

身内程度なら恥もさほどでない茂も、どうやら靖代は苦手分野らしかった。

「少し控えるかな」と呟いた茂に、布美枝は思わず「そんな…」と洩らした。

がっかりして夫を覗き込むと、何とも言えない愉快げな顔を向けてきた。

「あんたが不憫だと思ったんだが。もっとして欲しいか?」
「………っ」

鼻先が触れる距離で、わざと視線を逸らさせないように、意地悪く尋ねられる。
こうなってしまえば布美枝も頷くしかなかった。当然茂を調子付かせることになる。
けれどそれは布美枝の本心で。
むしろ茂だけのものという証の刻印なら、ずっと消えないものが欲しかった。

再開される乳房への愛撫は、さきほどよりも心なしか熱を帯びてきて、
吸い付かれる接吻と、舐られる舌の動きが同時に、激しく布美枝を攻めたてる。
そして優しく撫でるような口づけの合間に、朱色の痕を刻むことも忘れない。
首を振って感応すれば、くすりと笑われる。その吐息にすら身悶える。

「…ん…ん、…ふ…」

やがて互いに全裸となり、冷たい部屋にそこだけ熱い身体を擦りつけ合った。
茂の堅い筋肉に、布美枝の柔らかな肌はぴたりと馴染んで、
触れ合う場所から互いへの想いを交わし、受け取るたびに情熱に昇華していく。
縺れて絡む肉体がしなやかに伸縮し、闇の中で蠢くふたつの塊を、美しく月光が照らしだす。

ふいに脚を掬われて、どきりと心臓が疼いた。
太腿の内側の、一段と肉が柔らかい場所を甘く齧られる。

「やっ…、あん…っ…」

唇と舌がするすると脚の付け根一帯を摩り、軽い鼻息にくすぐられて肌が震えた。
薄い繁みの向こうの開口部は、淫らな唾液を滴らせてひくついている。
乱暴にでもいい、弄んで欲しいと待ち焦がれても、もどかしく焦らされる。

(いじわる…)

腹の中で悪態を吐くけれど、布美枝はただ腰を捩ってそのときを待つしかできない。

「…見とるだけだぞ?」
「え…」
「見とるだけでどんどん濡れてくる」

笑いながらなじられて、火が飛んだように頭が沸騰したけれど、
茂に対してはとにかく素直すぎるこの身体は、今更否定のしようもなく。
ただ愛しい男だけにいたぶられる瞬間をひたすら待っている。

「…て、…くだ、さ…」
「ん?」

ここまできて羞恥など、この男の前では無用の飾りだ。

「舐…めて」

布美枝が素顔を晒せば、茂は決してそれを拒まない。
望みどおりに、望んだ以上のものを与えてくれる。

「――――― っ…!」

その刹那は声のみならず、意識まで吹っ飛ばされた。
茂の舌は絵筆のように、歪むことなく確実に布美枝の陰唇の縁どりを辿り、
包み隠してあった熟れた花芯に、甘く軽い口づけを落とした。

「は……っ、あぁ…ん、ぁぁっ…!」

ちう、と音がして花から蜜を吸うごとく、優しく吸い付かれると、
びくびくと全身が反応して、もろく砕けそうになる。

布美枝の身体が勝手に撥ねださないよう、茂が腕でがっちりと脚を抑えつける。
指の腹で最も敏感な粒に円を描き、弄ぶように何度も擦られた。

「ああ…っ!…は、ぁ…ん…は、…ぁ、はぁ…!」

繰り返し指が抜き差しされ、溢れ出す蜜を舌で舐られる。
茂の息遣いは荒く、発情する雄の四つ足そのものだ。

「ん、あ…ぁ…ん、…ふ、…っ」

布美枝の伸ばした両手は、くしゃりと茂の黒髪に絡まり、もっと、と切なく乞い願う。
甘い痺れに神経を狂わされ、やがて布美枝は淫らな喘ぎの中に、自らを失っていった。

放り投げてあった左手に、茂の指が絡まった。
その指先の感覚に、ようやく我れに帰った布美枝が、のぼせた表情で夫を見上げた。

「ええか?」

短いそのたった一言に、たちまち全身総毛起ってしまう。
それは茂が与えてくれる、快感への予告状。
受け取ってしまえば最後、麻薬のようにそれなしでは耐えられなくなるほどの。
早くください、などと。1年前の布美枝では考えられない言葉が、喉元まで上ってくる。

秘裂に押し当てられた茂の硬直は、いとも簡単にずぶりと呑み込まれていく。

「は…ぅ…っ」

仰け反って喉を鳴らす。根本まで入り込んだと同時にきつく抱きしめられた。
茂の形を記憶して、それを噛みしめる内襞はまるで生き物のようにさざめく。

「やぁ……あ……ん」

押し引きする茂の腰に合わせて、布美枝も身体を揺らした。
シーツをぎゅっと握りしめ、例えようのない感覚の波の狭間を浮き沈みした。

「…おい」

しばらくして律動を緩めた茂が、布美枝の耳元で囁いた。

「遠慮するな。俺にしがみついとれ」
「…っ…けど…」

このままではまた、新しい爪痕をつけてしまう。
布美枝はいまひとたびシーツを握りしめ、もじもじと躊躇った。

「気にせんでええ。痛くはないし、それに…」

茂は態勢をぐっと押し倒し、布美枝の耳元へ口を近寄せ

「あんたがえらく感じとる、という証拠だけん」

ぼそりと囁いて、ふふんと笑った。
布美枝が困惑顔になるのを、愉しむのが茂の軽口だ。

「もぅ」布美枝が唇を尖らせて、軽く茂の肩を押し戻す。

そして見つめ合って、互いに表情を弛ませた。

甘美で、濃厚な口づけを交わし、覆いかぶさる茂に両腕を絡めた。
最も密着した体勢で再び、官能の揺さぶりが始まる。

「あっ、…あっ、んっ、ふ、あ、あ、…ぁっ…!」

布美枝の奥の、確実な場所を穿たれる。そのたびに嬌声が零れる。
咥えこんだ男根の力強さにも圧倒され、ぎりぎりと指先へ力が籠もっていく。

紅色の刻印と猫の爪痕。互いが互いのものだという証。
それが間違いなく刻まれているのなら、願わくはそれを結晶として、
人形(ひとがた)にして我が身に宿して欲しい。
それはすなわち、茂の命を預かるということに等しい、と布美枝は思った。
苦しく胸の内にこみあげる、形容し難い想いが、涙となって瞳から溢れた。
気づいた茂が、そっと唇で掬いとってくれる。

「また…余計なこと、…っ、考えとるという、顔…だ」

漲る射精欲を押しとどめながらも、布美枝の涙の真意を瞬時に悟る。
そういうところに、甘えてしまう。茂が年上だからというだけではなく、
夫として、男としての、目に見えない包容力の大きさを、痛感する。

「あな、た…」
「なんも…考えるな。俺だけの、こと…を…」

よりいっそうの抽送に声を失った布美枝が、白い喉を留守にすれば、
吸血鬼のように噛みつかれ、ついには首筋にも印が残された。

「あっ…!あ…んんっ!は、っ、ああ、く…ふ…ぅん…っ!」

そんなことを知る余裕もなく布美枝は、襲いくる官能の痺れに震え、悶えた。

「っ…つ…」

やがて苦悶を解放した茂が、熱い精子を布美枝の奥深くへ吐き出した。
肩を上下させ、全身へ拡がっていく心地よい疲労に目を瞑っている。
その様子を下から眺めながら、布美枝は再び溢れそうになる涙を必死で堪えた。
震える睫毛、汗ばんだ鼻筋、乾いた唇、揺れる前髪、
堅い腕の筋肉、厚い胸板、弛緩した肌の温もり、
そして幻の左腕…。

全てが愛しい。

愛しい男の艶やかな表情と、逞しい肉体をしかと見つめるために、
今だけはひたすら、涙を堪えることに集中した。

― ― ―

翌日、ガス周りを見てもらい、風呂の火種は元通りになった。
どやどやと様子を見に来た雄一一家が、さっそく一番風呂に浸かる。

「修理代はまあ、昨日の銭湯代ということでうちも負担したということにしとけ」

と、いつもどおりの義兄の調子で、結局一銭も置いていくことはなかった。
もちろん、茂も布美枝も期待はしていなかったけれど。

その代わり、波子が手紙をくれた。学校で字を習い始めたところらしい。

『おじちゃんおばちゃん、いつもおふろありがとう』

たどたどしい字が微笑ましく、布美枝は波子の頭を撫でた。

「だんだん」

子どもらしい照れた笑顔が可愛らしい。目を細めていつの日かの我が子を想像した。

帰り際、佐知子がぼそっと布美枝に声をかけてきた。

「茂さんと、ちゃんと話したの?子どものこと」
「…はい。まあ、そげに慌てることはない、と…」

福の神の算段ですけん、と嬉しそうに言った布美枝には、佐知子もきょとんとなったが、
すぐににこっと笑顔になって、ぽんぽんと背中を叩いてくれた。

「良かった。でもなんだかもうすぐのような気がしてきた」
「え?そ、そげですか?」

ぽっと赤くなった布美枝を見て、うふふと横目でにやける佐知子。
その後ろから、波子が布美枝を指さして言った。

「おばちゃん、また虫に刺されてるよ。昨日はなかったとこ」
「へ?」

いっせいに、雄一、健太、茂が布美枝をふり返り、佐知子がわたわたと波子の口を塞いだ。
雄一の視線が布美枝の首筋の朱色に留まると、これ以上のないにやけ顔になる。
横にいた茂の首を腕にはさみこんで、脇腹を小突いた。

「子どもに隠し事はなかなか難しいもんですなあ」

わざとらしく雄一が言った。茂は仏頂面で兄を押し退けた。

親子4人、手を繋いで仲良く帰っていく後姿を見送りながら、
布美枝は夕日の所為にしてずっと赤くなって俯いているしかなかった。
下を向く布美枝の額を指で軽く弾いて、茂が顔をあげるよう促す。

「…ったぁい」
「だら」
「だ、誰のせいで…」

ふふん、と勝ち誇ったような表情の茂を、むっとして睨みあげる。
すると、ひょいと右手が差し出された。

「…?」

夫の狙いが解らず、けれど差し出された手前、おずおずと左手をそれに乗せてみた。
ぎゅっと握りしめられ、少しどきどきした。

「あの?」
「いつか、ああなるときが来るかも知れん」

顎で指した先には、雄一一家が去った道だけ。ひゅるりと風が舞っていた。

「…来んかも知れん」
「…」
「けど、元はお互いひとりだっただろ」
「はい」
「…それが今はふたりだ」
「…はい」
「意味、解るな?」
「…………はい」
「そういうことだ」

不器用な男の、ぶっきらぼうな言葉。
けれど布美枝には熱く胸に響いた。
今はただ、茂にだけ付いていこう。
彼の命を継ぐ方法は、何も形だけに拘らなくても良いのかも知れない。
自分という妻が、彼の全てになれるように。それが神の意志ならそれも最上だ。
ふたりは微笑みあうと、手を携えて戻っていった。

――― 茂と布美枝の、小さな命が芽吹き始める、少し前のお話…。






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