つま恋
村井茂×村井布美枝


淡いピンクの桜はもう八割方散ってしまったけれど、新緑の鮮やかさが眩しい深大寺境内。
茂は遊歩道をぶらぶらと歩き、目を細めながら時折天を仰ぐ。
布美枝を連れてくれば良かったな、と思う。惜しいほどに雲ひとつない晴天だった。
ふと先ほどのことを思い出し、わずかに頬が緩む。

「あんたは手先が器用だなぁ」

せっせと謄写版を刷り上げ、「少年戦記の会」の会報を作る布美枝の手を取って、
心底感心して何の気なしに呟いてみただけだった。が、きょとんと見返された布美枝の顔が、
みるみるうちに紅潮していくのに気づいて、こちらも言い知れぬ気恥ずかしさに包まれた。
慌てて「散歩に…」などといって、こうして出てきてしまった次第である。
どうにも調子が狂うな、とぽりぽりと頭を掻いた。

襖を隔てた向こう側に、新妻が居つくようになってからしばらく経つ。
時折忙しく動き回る大きな図体。そして時折じっと座り込んで考え事をする気配。
こちらの邪魔をすることなく、しかしさりげなくその存在を主張する。
女房という存在は、茂にそれまでついぞ縁のなかった、奇妙で面映ゆい感情を湧き起こさせる。
妻をめとる気がなかったわけではないけれど、準備をする暇も、金も、そして肝心の伝手もなかった。
イカルの勢いなくしては、この結婚ありえなかった話だな、と思う。

隻腕の40前の男と承知で見合いに臨んでくるくらいの女だから、
よほどの事情があるのだろうと思っていたが、その実のんびりとした、朗らかな女だった。
思っていたより背が高いのは別段気にはならなかった。
むしろひょろ長くて薄っぺらいのが、言い伝えのある妖怪の、一反木綿みたいで愉快だったし、
かと思えば、式の日に見た白無垢の姿は、美しさの中に凛々しさがあって思わず見蕩れた。

姿勢よく、すらりとした全身に、さらさらとなびく黒髪が清清しい。
逆に風呂上りに洗いざらしの髪がもたつく様も、どこか色気を感じさせる風貌がある。
おどおどと下から見上げてくる瞳も、嬉しそうに微笑う表情も、正直どれも気に入っていたりする。
ただ、あの涙にだけは未だ慣れない。
結婚式のときの涙、安来の家族と別れるときの涙。
そして一番驚いたのが、自転車を買ってきたときの涙だ。
昔から女の涙には弱い。あのイカルでさえ、復員してきたときは今にも泣き出しそうで一瞬怯んだ。
きっとこの先ずっと、女の涙だけは苦手なままだと思う。

そんなだから、睦み合う最中の意味深な涙も、茂にはその正体が掴みきれないでいた。
夜の褥で、必ずと言っていいほど涙を零す布美枝は、いつも茂を戸惑わせる。
誤魔化すようにすぐに微笑んで、「すみません」と謝られるが、本当は辛いのだろうか?
こちらに気を遣って、快い振りをしているだけでその実…。と思えて仕方ない。
だとすれば、彼女は未だ自分に心開いてはいないのではないか。

戦前、戦中、戦後と忙しなく過ごしてきた茂に、女性とのかけひきなど経験する機会はなかった。
正直、真っ向相対した初めての女性が布美枝だったし、女性といえばイカルか布美枝くらいのものだ。
イカルを女性として考えるのは、いささか世間離れしすぎているので度外視するとするならば、
やはり茂の人生において、不可解かつ不思議な生き物、それは女であり、布美枝だと言えるだろう。
慣れない夫婦暮らしはこそばゆく、嫌な思いは決してないけれど、
どこか不安定で、ぎこちなく、独りになるとつい肩から脱力してしまうほど、微妙な空気が漂っていた。

ふう、とため息を吐いて、道の脇にしゃがみこんだ。
あの日、布美枝とふたりでぺんぺん草を間に笑いあった場所。
俯いて、心が少し沈んだ。
――――――ところへ。

「お〜いゲゲ〜」

突き抜けてすっからかんの、浦木克夫の声が聞こえた。

「あぁ?」

物思いに耽っているときに、この声は妙に茂を苛立たせる。睨み上げるようにしてそちらを振り返った。
浦木はポケットに手をつっこんで、脚をぶらぶらとだらしなく運びながら近寄ってきた。

「やっぱりここかぁ。さすが奥さんだなぁ、お前の行く先をちゃあーんと把握しておる」
「なんなんだ、お前?こげなとこで」
「お前の家に寄ったらお前は散歩に出たというのでな。奥さんが多分ここだろうと」

にんまりと笑って「新婚とはいえ、さすが夫婦だな」などと肘で小突かれた。

「…何の用だ?」
「会報作りが進んでおるのか様子を見にきたのよ」
「暇な奴だ。お前こそ、通信販売すると言うとった模型の調達はちゃんと出来とるんだろうな」
「俺を誰だと思っとるんだ。仕事は完璧にこなす男。それが浦木克夫よ」

馬鹿らしくなって、さっさと歩みを進める。折角の晴天の散歩が台無しだと思った。

「おいおい、待て待てゲゲ〜」
「会報ならちゃんと出来とっただろうが」
「まあ、素人の手作りにしては上出来だな。器用な女房を持って良かったなぁ」

肩に腕を廻してきて、にやにやと横目で茂を見る。

「惚れておるのか」
「…はっ」

一瞬身体の左側がずくりと蠢いたのを悟られないよう、興味なさそうに吐き捨ててみる。
浦木は茂の横顔に貼り付くようにして、

「せいぜい逃げられんようにしろよ」

シシシと歯を見せて笑った。

「だらっ!2回も逃げられとるお前と一緒にするな!」

そうなのだ。このイタチ男は信じられないことに2回の婚歴がある。が、2度とも破綻している。
破綻には納得がいっても、そもそも結婚が成立したことが2度もあるというのが茂には理解できなかった。

「だからこそ親切に提言してやっとるんだ。先人達の失敗からは色々と学ぶことがあるだろうが」
「偉そうに。余計な世話だ」
「まあ聴け。女の機嫌は山の天気よりも変わりやすい。女にはからっきしだったお前が、
いきなり女房を持つなんて離れ業を為したもんだから、親友の俺としては心配なわけよ」

それらしいことを顔の真横でごちゃごちゃと言われ、不愉快極まりない。
肩を抱いてくる腕を振りほどいて、再び速足で歩き始めた。
しかし浦木は怒るでもなく、後から付いてきて、茂の背中に話しかける。

「要点だけ言うとな。まあ、夫婦生活というのは究極、夜の営みに全ては尽きるぞ。うん」
「はあ?」

何を言い出すかと思えば、昼下がりの屋外、まばらとはいえ人通りもあるところで、
ぬけぬけと男女の褥話を始めるつもりなのか。茂は慌てて浦木に駆け寄り、その口を右手で塞いだ。

「何を言い出すんだ、お前はっ」

塞がれた右手を、やや丁寧に茂に押し戻しながら、浦木は音量を抑えた。

「…ゲゲ。お前いくら新婚だからと言って、やたらめったら女房を押し倒したりしておらんだろうな」
「な…っ」
「俺もあの頃はなあ、とにかく若かったこともあって…」

空を仰ぎながら、しみじみと語り始める浦木を尻目に、茂は顔を歪めた。
が、少しだけ胸の内を探られたような、奇妙な動悸が沸き起こってきたのには焦った。

「それはそれは連日毎晩、夜と無く昼と無く攻め過ぎたのが悪かったんだな、うん」

若かりし我が身を半分笑いながら嘆き、大袈裟に頷いて腕を組む浦木。

「…単にお前が下手糞だっただけじゃないのか」
「馬鹿、んなわけあるか!」
「じゃあなにがいけんのだ。その…夫婦なら、別に、そういうことは…」
「かーっ、やっぱりお前は阿呆だ」

反射的に鼻に皺が寄った茂を見て、浦木は小さく後方に退いたが、
顔はしてやったり、という風で茂を覗い、そしてゆっくりと続けた。

「ええか、女が家に縛りつけられておった戦前までとは事情が違ってきとるんだぞ。
亭主に何をされても、女房が文句を言えんだった時代は終焉を迎えておるんだ。
ともすれば亭主なんぞおらんでも、女がひとり立ちしてやっていこうなどという風潮もある。
そこへきて、女房だからええだろうと亭主が好き放題、欲に任せて腰を振っとってみろ、
『私は貴方の道具ではない』とまあ、大反発を喰らうことになってしまう」

そしてそれが2人の女房と別れた原因だと言うのだ。
浦木は腕を胸の前で組み直して、じっくりと茂の顔を見つめた。

「要点はここからだぞ、ゲゲ。俺の元女房どもには、それなりのことを言う『口』があった。
しかしお前の女房ときたらどうだ。お前が威圧しとる上に、極度の引っ込み思案、
嫌なもんを嫌とよう言わんきらいがある。こういう女は内々に爆弾を抱え込んで、
それに気づいた時には大爆発を起こしかねん面倒な性質だ。これでは円満な夫婦生活にも、
いずれ支障をきたすこと、これ時間の問題と思うがな」

尤もらしいことを、さも自分が編み出したかのように語るイタチには閉口したが、
思い当たるふしのある茂は、ただ黙ってゆっくりと俯いた。

夜と無く昼と無くとは言わずとも、ここのところ布美枝の寝床へ、
しばしば断りも無く入り込んでいくことが多くなっていたのは事実で。
驚きこそすれ、それでも決して抵抗などしない従順な新妻は、やがて茂の腕の中で翻弄されて果てる。
しかしそれに満足してこちらも欲を吐き出せば、遂にあの苦手な涙が零れていくのだった。

もしや…と、胸にちくちくと針で刺されたような痛みが走った。

(嫌…だったんだろか)

妙な動悸を気づかれないよう、浦木からは目を逸らしてごくりと唾を呑んだ。

そんな茂に気づいているのかいないのか、浦木はぺらぺらと喋り続ける。

「お前のように自分の好き勝手を第一に持ってくるような男に、俺のような2度目はないぞ。
今の女房を逃したら最後、お前は一生を独りで送るしかなくなるのは確実だ。
ましてお前も結構気に入って惚れ込んでおるようだしな」
「…だからなしてそげなるんだ」
「自覚がないんだろうが、傍から見ておれば解る。もともとお前は女に免疫がないしな」
「黙れ!」

掴みかかろうとしたところへ、逆にがっつりと肩を抱かれた。

「ゲゲ」

正直これ以上もなく鬱陶しかったが、黙って横目でイタチを睨み返す。

「女房と永く連れ添うにはなかなか苦労が伴う。ときには我慢というのも重要なのだ」
「よくもまあ…」
「せいぜい精進することだ。惚れた女相手なら努力し甲斐もあるというもんだろ?ん?」
「…」

良くも悪くも、この浦木のアドバイスは茂をただひたすら悩みへ導くのみであった。
が、茂が真剣な表情で考え込み始めたものだから、かえって浦木は気をよくしていた。

「ふむ、これは指南書の1冊でも出版してみるかな。無愛想で朴念仁な亭主のための女房攻略法伝授…」

独りぶつぶつと呟きながら、「題して『夫の心得』なんてな!」と満面の笑みを湛えたりなどして。

― ― ―

「おかえりなさい。浦木さんにお会いになりましたか?」

布美枝の笑顔に出迎えられ、何故かばつが悪い気になる。彼女に罪などないのだけれど。
口の中で「ああ」とだけ答えると、そそくさと仕事部屋へ閉じこもった。
こんな態度さえ、いつものことだと布美枝はきっと気にしたりはしないだろう。
自分でもぶっきらぼうで、不器用な男だという自覚はある。けれど矯正は難しい。
40年ずっとそうだったし、こと、相手が女となれば尚更だ。
というよりもここのところは、布美枝なら尚更…と言った方が正しいのかも知れない。

敬愛するゲーテなら、情熱的な愛でもって、筆の赴くまま詩などを書き綴って相手に贈るのだろうが、
残念ながら彼のように恋多き男ではない。
これはどうしたものかと、茂は頭を抱えた。

夜の帳が降りてくると、ますます憂鬱になってきた。
綺麗に並べて敷かれた布団の横で、長い髪を櫛梳く妻の後姿。
いつもなら艶めかしく、光に吸い寄せられる虫の如く傍に寄っていくところだが、
今夜ばかりは異様に緊張してしまっていた。

浦木の説と、いつもの涙を思えば、ここはぐっと堪えて日を置くべきだろう。
この女房にしたって、昼間のような可愛げな表情を見せるあたりからして、
さほど自分は嫌われてはいないはずだと思われる。
日にちさえ置けば、夫婦の営みを拒むほどの嫌悪感は持たれてないだろう。
茂は器用に左脇の下に右手を組んで、胡坐のまま深くうなだれてあれこれと考えこみ、
必死にもうひとりの自分を説得した。
そして、ぽんとひとつ膝を叩いて、吹っ切るように顔を上げた。

途端に、

「――ぅわっ!!」

茂が叫んだのも無理はなく、顔を上げたわずか3寸先に、心配げな表情の布美枝の顔があったのだ。

「気分でも悪いんですか?」
「いや、そ、そげなわけでは…」

丸い目玉をきょろりとさせて、やや下方から見上げるその眼差しにどぎまぎしてしまう。
寝間着の浴衣の合わせ目から、美しい形の胸の谷間がちらりと覗いていた。
長い髪が横顔にし垂れて、いつもとは違う色気のある雰囲気が、茂を追い込んでいた。

思わず目を逸らすと、逆に布美枝は何を思ったか、茂に今一歩擦り寄ってくる。
横座りの姿勢で、寝間着の裾がやけに乱れていた。
細くて白い足が、おおかた膝上あたりまで捲くられてしまっている。

「…」
「…」

互いになぜか会話が成立せず、その体勢のまましばらく固まることになる。

(どげしたもんかな…)

目のやり場に四苦八苦していると、いよいよ口を開いたのは布美枝の方だった。

「き…今日はやけに…暑い、ですね」
「え?」

そうだろうか、と思った。昼間はぽかぽかと暖かくはなったが、夜はまだ肌寒い。
熱でもあるんじゃないかと、茂は布美枝を見下ろした。
すると布美枝は、ただでさえ目につく胸の谷間に、さらに手を入れてぐいぐいと寛げ始めた。
慌てて目を逸らすと、今度はその視線の先に白い太腿が飛び込んでくる。
大胆にも、膝上からさらに裾は拡げられて、今にも下着の端が現れそうだ。
逃げ場をなくして茂は、とうとう「寝るぞ」と言い捨て、布団の中へ潜り込んだ。

背後で布美枝が何やらそわそわしている気配があった。
小さく「あれ?」とか「えーと?」などとぶつぶつ呟いている。
しかししばらくして、ふっと灯りが消され、ようやく布団へ入っていく音がした。
その様子に思わずほっと息を吐く。同時に全身から脱力していった。
このまま目を閉じて眠ってしまえ。そうすれば奇妙な煩悩などすぐに消え失せる。

茂がぎゅっと目を閉じた次の瞬間、再び緊張の糸が全身にぴんと張られたのだった。

「え…」

茂の丸めた背中の向こうに、柔らかく温かな感触が張り付いてくる。
そしてまるで昆虫の触手のように、布美枝の細い腕が前身ごろに回り込んでくる。
どこか躊躇いがちに、ぎこちなく、茂の胸元を擦りながら寝間着を弄る。

「ど、げ、した?」

ようやく絞り出した声がやたら掠れていた。布美枝相手に焦る自分自身が不思議だった。

「えっ…と」

背中に当たる唇から、くぐもった布美枝の声がする。
ぎゅっと抱きつかれ、体勢を変えようにも動きが制限されていた。

「寒いのか?」
「え、あ、は、はい、寒くて」
「…さっきは暑いと言うとらんだったか」
「あ…」

やはり今夜の布美枝はどこか可笑しいと思った。
睦み事を予感して、茂の前でおどおどすることはあっても、
こんな風に自分から、寝間着を肌蹴たり、抱きついてきたりなどということは一度もなかった。

茂は混乱していた。
昼間、浦木から散々営みは自重しろといった旨の「有難い説教」を享受されたにも関わらず、
そんな夜に限ってどこか積極的にも思える布美枝の挙動。
布美枝の手は、しばらく茂の胸の上でぴたりと止まったまま、収める先を見失っているようで。
その冷たく戸惑う腕が、なお一層茂の焦燥心を煽りたてる。
自分の欲と布美枝の意外性に甘んじて進むべきか、失敗学の先駆者である浦木に従って退くべきか。

背中にあたる布美枝の身体から、想像力が掻き立てられる。
長い髪の香りと、小ぶりな形の良い胸。細く締まる胴回りに、丸く滑りのよい臀部。
浮き出る腰骨から、薄っすらとした繁みの向こうに秘めた、最も敏感な粒のピンク色…。
すっかり布美枝の細部を記憶してしまった脳内で、必死のせめぎ合いが行われているところへ、
胸の上で留まっていた布美枝の手が、三割がた頭を持ち上げてきていた茂の下半身へ伸ばされた。

「…!」

ぎこちない手の動きで、もぞもぞと股の間を探り始める。
遂に耐え切れず、とうとう茂はその手をぐっと掴み取った。

「きゃっ!」

勢いよく身体を反転させると、捕らえた細腕を敷布に押さえつけて叫んだ。

「あんた、どげなつもりだ!」

言い方が荒っぽくなってしまったためか、組み敷いた布美枝の顔がひどく怯えていた。

「す、すみませ…」

瞳がうるうると揺れ始める。このままだと、あの最も苦手な表情を見ることになってしまう。
慌てて茂は掴んでいた腕を離し、姿勢を元に戻した。おそるおそる、布美枝も身体を起こす。

「お、怒っとるわけじゃない。ただ…」

まともにあちらを見られないのは、我ながら情けなかったが、苦手なものは苦手なのだ。

「無理をするなと言いたいだけだ」
「無理…?」

問い返された声が既に涙声だった。ますます肩身が狭い。

「…嫌なんだろ?その、毎日こげなことをするのは…。最初に言うたはずだ、
俺はあんたを金で買ったわけじゃない。気乗りもせんのに、俺に気を遣って、
いつも我慢して応じることはないんだ。嫌なら嫌と、言うたらええ」
「え?」

しん、とした暗闇の中で、布美枝がそわそわし始めるのが判った。

「いちいち…ええかどうか訊くのも煩わしいけん、ここんとこはちょっこし、
強引にコトを進めとったかも知れん。今日からは、あんたが嫌なら正直に言うてくれたらええ」
「あの…あたし…」

遠慮がちに、けれど、闇に慣れた目でそちらを見ると、向こうもじっと茂を見つめていた。

「…あたし…嫌なんかじゃ…ないです、よ」
「え」
「むしろ…貴方の方が…そのぅ、あ、飽きて…こられとるんじゃないか、と」
「飽きる?」

どうしてそういう話になるのか、茂にはさっぱり分からなかった。
言いにくそうに布美枝は俯いて、ぼそぼそと事と次第を話し始める。

「浦木さんに言われたんです…、夫婦仲はひとえに…その、夜の、そういう、コトに尽きますな、って…」

ぽかんと口を開け、阿呆面のまま茂は布美枝を見つめた。
どこかで聞いたことのある台詞。まんま、あの時の浦木の言葉どおりだった。

「いつもいつも、旦那様に任せて、されるがままでは、まな板の上の魚以下ですよって。
待ってばっかりの姿勢では、すぐに飽きられてしまうから…。だからたまには…」

恥ずかしくなったのか、どんどん小さくなっていく。もじもじと手を擦りながら。

「お、女の方から…誘ったって、今どき…はしたないことではないから…」
「…と、あいつが言ったのか」

こくりと頷く。茂の反応を覗うように、目だけを持ち上げて見上げてくる。
なるほど、今夜の布美枝をけしかけたのは、他ならぬあの浦木克夫であったのだ。
おそらく、茂を訪ねてきた際に、布美枝をからかって面白おかしく焚きつけたのだろう。
真面目街道まっしぐらの布美枝は、まともにその話を受け取って、慣れぬ行動をやってみせた。

(あの野郎、俺には散々我慢しろと言うとったくせに!)

布美枝には真逆のことを教え込み、まんまとその気にさせたということか。

「嫌でしたか…?はしたない…ですか」

せっかく治まったと思ったのに、布美枝の声がまた涙声になっている。

「そげなことはない!」

慌てて茂は否定した。事実、はしたないとは思わなかったし、
まして嫌だなどと、あれだけ動揺しておいて、どの口が言えるだろう。

「けどな、イタチの言うことなぞまともに聴かんでええんだ」

まともに聴いてしまった自分のことは恥じつつ、布美枝の左肩に手を置いて。

「あんたに飽きとるなら、俺はこげに悩むことなかったんだけん」

飽きるどころか、身体を重ねるたびに解らなくなっていくことばかりだ。
肌の柔らかさ、漂う芳しさ、同じ家に住んでいて、何もかもが自分と違う布美枝の身体。
そして何より、あの涙の理由…。

「悩むって…?あたしが嫌がっとると思っとったからですか?」
「ぅむ…まあな」
「なして?あたし…そげに嫌そうな顔しとったですか?」
「いや、そげでなくて…」

言葉に詰まる茂に、布美枝はそそっと近寄ってきた。
懐まで間合いを詰められ、先ほど押し倒した際に乱れた寝間着から、素肌が見える。

「…なら、ええんだな?」

いつも零す涙の理由は解らないままだけれど、白く覗く肌の吸引力はすさまじく、
茂は布美枝の答えを待つことなく、そっと妻を抱き寄せた。
芳しい女体の香りに酔いしれて、柔らかな肌の感触を確かめる。
胸の中で小さく布美枝が頷くのを確認し、赤らめた頬に軽く唇を触れた。
互いの呼吸を確認し合ってから、いつもより数段緊張した空気で、口づけた。

顔を傾けて、深く、何度も触れ合う。呼吸をする間も惜しいほどに、息が切れるほどに。

「は…ん、ふ…」

舌で舌を絡めとり、甘い吐息を交換する。うっすら目を開ければ、眉間に皺の必死な表情。
たゆたう髪をかきわけ、うなじで頭を支えて、口づけたまま褥に横たわらせた。
長い口づけの嵐に、溺れかけた布美枝が瀕死の魚のように身悶えて息継ぐ。

「は…あっ…」

髪の隙間から現れた耳に息を吹きかけ、舌を這わせた。ぴくりと肩を持ち上げて震える。
ぴちゃぴちゃと、耳元でわざとらしい音をさせ、辺りを舐った。

「ぃ…ゃ…あ…」

そもそも茂を煽るため、布美枝はあえて寝間着を着崩していたらしく、
既に胸元は大きく開き、腰紐も緩く簡単に解けた。
つんと上向きに、形の良い丸みが現れ、先端の桜色が茂を誘惑していた。
脇の方から寄せ上げるように、右手で包み込む。
恥ずかしがって顔を逸らした布美枝の、留守になった喉元に吸い付き、
乳房の柔らかさを手のひらで持ち上げつつ、親指と人指し指で乳首を軽く扱く。

「んっ」

一方の先端を軽く啄み、尖らせた舌で絡み取るように捏ねた。

「っ…ぁ…」

浮き上がった鎖骨にも口づけ、胸の谷間に赤い痕を残す。
白い肌に浮き残る痕跡は、茂の支配欲を満たして、思わず口の片端が上がった。
獣のような息遣いで、まさに獣のごとく目の前の妻を犯す。
鎖を外された動物みたいだな、と頭の隅に追いやられた理性が、茂にちくりと嫌味を差した。

が、そんな激しさに、布美枝の遠慮がちな声が待ったをかけた。

「あ!…ぁ、のっ!」

両手で茂の肩を軽く揺さぶり、八の字眉で申し訳なさそうに見つめられる。

「…どげした」

急に不安になる。「嫌なら嫌と言え」と言ったばかりだから、本当に「嫌だ」と言われるのだろうか。
けれど、もし実際に言われたら、それはそれで受ける打撃は大きい。

「嫌か」
「じゃ、なくて、その…やっぱり…あ、貴方はまともに聴くなって仰ったけど、でも。
浦木さんの言うことも…ごもっともか、なと思って」
「んん?」
「だけん、その…さ、さっきから、あたしばっかり…」

布美枝の言葉はいつも、核心をつかないことばかりだ。
焦れた茂は、再び耳元へ唇を落とした。

「や…っん、待ってぇ…」
「何が言いたいのかさっぱりわからん」
「だ、だけん…そのぅ、貴方にも、ええ、こと…したいんですっ」
「ええこと?」

茂が眉をひそめたのを見て、言葉で伝えるには限界があると思ったのか、
布美枝はぐいぐいと茂の身体を押し上げて、ふたりは向かい合って座り込む形になった。
真っ赤な顔で、布美枝はこほん、と小さく咳払いをして。

「貴方が、き、気持ちええ、と思うようなこと、です…」
「はぁ?」

要するに、「まな板の上の魚以下」と言われたのが気になっているらしく、
一方的に茂からの愛撫を受けるだけではダメだとでも思っているようだった。

「無理をするなと言うとるだろうが」
「無理じゃありませんっ!あたしだって…貴方に『ええ』って、言われたい…」

言葉を失った茂は、がしがしと乱暴に頭を掻いた。
布美枝の申し出は、正直いじらしく、可愛らしくも思えたが、
だからと言って、どう応えればよいのかはさっぱり判らない。
いつもいつも、布美枝は自分の腕の中で、艶やかに燃えて、尽きればしなやかに果てる。
それを見ているだけで満足で、自分の快感などはその後に満たされればそれで良かった。
けれど、今思えばそれすらも、「欲に任せて腰を振っているだけ」に過ぎなかったのかも知れない。
いちいち浦木の言葉が思い起こされるのは癪だったが、ヤツの言うことには
本当にいちいち説得力があって、しかしそれがいちいち不満で仕方がない。

考え込む茂の顔を、すい、と細い指が掬い上げた。
誘われるままに頭を上げると、切なげな表情の布美枝が見つめている。
切実に、思ってくれているのだと思うと、じわじわと温かさが沸いてくる。
これが愛しさという、不思議な感情なのだろうか。

ちゅ、軽い音で唇を触れ合わせ、布美枝の手が茂の寝間着を解いていく。

「…触ってみるか」

茂の胸板を見つめていた瞳が、その声にぴくりと反応した。
胡坐の前身ごろを寛げ、すっかり硬く勃ちあがった雄を曝す。
反射的に目を逸らした布美枝だったが、ややあって再び茂を覗い見てくる。

「手で…擦ってみ」

小さく唾を呑みこむ音が聴こえ、やがて冷たい手がそっと熱棒に当てられた。

まじまじとそんなところを見られるのは、さすがの茂にも抵抗があったが、
おそるおそる、僅かに竿を握って上下する布美枝の、あまりのぎこちなさに、
なんだか可笑しさがこみあげてきて、思わず苦笑した。

「こそばゆい」
「え、え?こう、じゃない?」
「もっと強うしてもええ」

やや握力がかかったが、それでもまだくすぐられているような気分だった。

「あの…ええ、ですか?」
「くっくっく、ええも悪いもない」

焦りを前面に出して、布美枝は両手を忙しく動かす。
必死な顔と、その向こうに揺れる乳房が可愛らしく、目の前の丸い額に口づけた。

「も…どげしたら…」
「咥えられるか」
「え…」

布美枝の顔に、動揺の色がさっと差した。

「あ、いや、無理せんでええ」

慌てて遮った。俯いてしまった布美枝に、何度か口づけて労う。
きょろきょろと定まらない瞳に、今一度「ええんだ」呟いてみせた。
けれど。

「あたし…よう、わからん…ですけど」

言いながら布美枝はぐい、と茂の両脚を押し広げ、手も添えずにそれを咥えこんだ。
気圧されて尻餅をつき、ようやく後手をついて体勢を保つ。

生温かい口内と、ざらつく舌の感触に、ぞくぞくと背中を虫が這った。

「ん…む…」

布美枝は苦しげに、いったん咥えた男根をずるりと吐き出し、はっと息をついた。
しかしすぐに、赤黒く筋立つ血管に沿って、妄りな表情を晒して舌を伸ばす。
根元から先端へ舐めあげ、くびれた段差のあたりを周回した。
右手にそっと包みこみ、じわりと滲み出てきた汁を吸い込みながら、小さく上下させる。

「…っ…」

腰に力が入らず、支えている腕がじりじりと痺れてきた。
茂は天井を仰ぎ、湿った息を吐き出した。目を閉じると、自然と全神経がそこに集中する。

「…は…っ」

ため息とともに零れた声が震えていた。
はっとして頭を下げると、上目遣いの布美枝と視線がかち合った。

「…だらっ」

悪態をついてみせたのは、布美枝の瞳がどこか笑っているようだったからだ。
茂の声にやや目を細めると、布美枝は再び視線を落とし、行為に没頭していった。
口の中で舌を蠢かせ、亀頭の先の割れ目をいじくる。
荒く、何度も息継ぎをしながら、口に余るその大きさに、必死で喰らいついていた。

疼く快感を何とかやり過ごしながら、茂は愛しく布美枝の髪を撫でた。
その瞳がまたちらりと上を見て、すぐに伏せる。長い睫毛が小さく揺れる。
出会いからまだどれ程という時間も経っていないというのに、
これほどまでに、彼女に淫らな行為をさせてしまっている罪悪感に苛まれる。
一方で、美しさと懸命さを今ひととき征服しているという、支配感も入り混じる。
口を窄ませて扱かれる心地よさに揉まれて、それら全てが茂の思考回路を無茶苦茶にしてしまう。

「ん…ん、もう…えぇ」

黒髪に、くしゃりと指を絡めて、布美枝の頬を撫でる。
合図を受けゆっくりと、咥えられていた熱棒が冷気に放たれる。
熱い息を吐き、布美枝は少しむせた。口から零れる液をぐいと手の甲で拭う。
先走りの液と布美枝の唾液を纏った陽根が、月の光に照らされて怪しくぬめっていた。

「あの…」

途切れ途切れの息の中、布美枝は茂を覗き込んで物問いたげに、こくりと唾を呑む。

「…ったく」

照れくさく、がしがしと頭を掻いて、その手で乱暴に布美枝を抱きしめた。

「人が弱っとるのを見てほくそ笑むなぞ、案外あんたも性質が悪い」
「…ふ、ふふ…」

揺れる肩を抱いて、茂も笑った。
わざと音を立てて照れ隠しに、布美枝の頬や耳に吸い付くように何度も口づけた。

「さて…どげしてくれる」

耳元で、意地悪く訊ねてみた。顔は見えなかったけれど、肩に置かれた手がきゅっと握られて、
相手の反応はすぐに判った。

「…跨ってみ」
「こ…のまま?」

寝かされるのが常だと思っていた布美枝は、座ったままの茂に驚いて訊き返す。
先ほどまでの大胆さは何処へ。布美枝の真っ赤な顔を見て、思わず笑みが零れた。

口の片端を上げたまま、茂は布美枝の秘所へと手を伸ばす。

「…やっ…」

腰を捩って逃げようとする寸前で、するりと下着へ入り込み、繁みを掻きわける。
下着を濡らすほどの滴りに、すぐにぬるりと指が滑る。

「…なんもしとらんのに」
「ぃ…ゃ…」

顎で促して膝立ちにさせ、役に立たなくなった下着をはずす。

「ゆっくり…ここに」

布美枝の入口に指を宛がったまま、自分の焦点との間合いを測る。

ぬ…ちゃ、合わさった音。こわごわ腰を落とす布美枝の胸が、目の前でふるりと揺れた。
呑み込まれる感覚に、一瞬だけ耐える。
亀頭が包まれ、布美枝が震える息を吐き出して、ぴたりと動きを止める。
それが歯がゆく、じれったく、一時休息する布美枝の腰を掴むと、勢いよく引き下ろした。

「や、あああっ…!」

嬌声を上げて、布美枝が仰け反った。白い喉に、汗が滲んで伝い落ちるのが見える。
肩にぴりりと痛みが走った。細い指の先の、鋭い爪に捕えられている。

「はぁ…あ…、ぁ…」
「…あんたに、動いてもらわんと」
「ぇ…あ、あたし…?」

眉間に皺が寄り、情けない顔をしている。ぷっと噴きだすと、向こうはぷっと頬を膨らせた。

「お、面白がってぇ…」
「面白いんだが。百面相。ほれ、女が積極的になるんだろ」
「う〜〜〜〜…」

低く呻ってから、布美枝は意を決したように、わずかばかり腰を浮かせた。
すると、いずれのものとも知れない愛液が、たらたらと滴り落ちてくるのが判る。
再び深く腰を沈めると、声を失くして息を詰まらせていた。

自分の動きで、勝手に追い込まれている。
そんな妻が可笑しくも愛しく、目の前で揺れる乳房に悪戯をしかけた。

「やっ…あ、あん…」

上に反った先端の果実を舌に乗せ、くるりと絡め取るように口に含んだ。
手に収まる柔らかさを揉みしだき、乳首の円形を潰さぬよう、指先で優しく捏ねる。
布美枝の動きに合わせ、茂も腰を動かし、下から突き上げてやる。
互いの息遣いが、まるで獣のそれと同じだった。
熱い吐息を交換しながら彷徨う意識の中では、理性も羞恥も霧消する。

「ん…は、っ…」

情熱の昇華先を求めて、茂が布美枝の唇を求めようとした、そのとき。

「え…」

月光に照らされた雫がひとすじ、布美枝の頬を伝っていた。

「な…して…」

身体を強張らせた茂に気づき、上気した表情の布美枝が荒い息のまま夫を覗った。

「貴方…?」
「なして…泣くんだ」
「え」

問われたことの意味が解らず、布美枝はぼうっと茂を見下ろしていた。

「いつも、思っとった。あんたはすぐにそげして泣くだろう。
嫌だからじゃないのか?好かんならそう、言うてくれと言うたのに…」

泣き顔を見ることはできずに、まるで子どもが母に縋るようにして布美枝の胸に抱きついた。
布美枝の鼓動の速さが伝わり、同時に蒸らされた女の香りも漂ってきた。
しばしそのまま、動かなかった布美枝が、やがてそっと茂の頭を抱きしめた。

「…ずるい」

布美枝の意外な言葉に、思わずひょいと顔を上げた。
熱を帯びた表情で、茂を包み込む聖母のような布美枝がそこには居た。

「…言わせるんですか…?」

両手で頬を包まれ、優しい接吻が降ってくる。
細腕を絡ませて、耳元で囁かれる。

「…気持ちよすぎて…身体が…」

まるでいつもの彼女とは別人のような艶声で。

「言うこと…きかんようになって…。熱くて、嬉しくて…。
でもちょっこし、怖くて…幸せすぎて。…もう、何もわけがわからんようになるんです…」

腕を解いて茂を見つめる布美枝は、恥ずかしそうに口を尖らせていた。

「涙腺が緩いのは…認めます、けど」

朴念仁を目覚めさせるには十分なその瞳で、茂はいとも簡単に追い詰められる。

「…誰のせいで・・・いつもこげなっとると思っとるんですか…」

見据えられた眼差しに、全身が痺れた。

――――…ずるいのはあんたの方だ。

茂はその言葉を呑み込んだ。
そんなふて腐れた表情で、小さく呟く声音ひとつで、たったこれっぽっちの涙だけで、
こんなにも心かき乱す、あんたの方がよっぽどずるい。
腹の中で布美枝を責めつつ、どうにも抑えきれない欲情の昂りにぎゅっと口元を引き締めた。

次の瞬間、その片腕に余る布美枝の細身を、抱きしめる勢いとともに押し倒した。
指を絡ませてしなやかな左手を握りしめ、無我夢中で唇を貪る。
同時に激しく腰を揺さぶり、先ほどまでのもどかしさを振り切るような充填で、
布美枝の中を熱で埋め尽くす。

「んっ…んくっ、ふ、あ…っ…!」

頭の中も、繋がった場所も、何もかもが限界に達していて、
必死に息継ぎをする布美枝を気遣う余裕もなかった。

浦木に乗せられたとはいえ、今夜の布美枝は異様なほどに茂を刺激する。
男心、独占欲、嗜虐心、支配欲…。けれどそれら全てを手玉に取られているような錯覚。
力強く組み敷いて、あり得ないほど淫らにさせても、結局抱かれているのは自分のような。
茂の律動に合わせて揺れる布美枝の艶めかしい姿態を見下ろし、滑稽な自分自身をあざ笑う。
結局、浦木の言う通りなんだな、と。

(女にはからっきしだったのに、いきなり女房なんぞ持つから…)

こげな苦労が伴うんだ。

「く……っ!ん、ふ、ぅっ…!ああっ…!」

握り締めた手をぎゅっと握り返され、背中に回された手からも、力が伝わる。
耳元で聴く喘ぎ声が、苦しげに掠れてきた。
烈しく重なり合う身体の共鳴の末に、今ひとたび隙間なく布美枝を抱きしめ、
自身の熱い滾りを愛しい身体に注ぎ込む。目を閉じて、痺れる開放感にしばし浸る。
熱く火照る柔らかな身体に、そっと抱きしめられる。触れられた場所から、癒されるような錯覚。
息を整えながら布美枝を見やると、再び頬に零れ落ちる涙を認めた。
苦笑いながらそれを唇で掬ってやる。

「…ハァ…はぁ……。ったく…壊れた蛇口か」

茂の軽口に、涙顔で布美枝が照れくさく微笑む。その笑顔が格別に美しかった。

― ― ―

寝間着を着なおすと、まるで猫のように茂に擦り寄ってくる布美枝もまた愛くるしい。
腕の中に抱きとめ、満ち足りたひとときの余韻を噛みしめる。

「…ふふ」

独りでにやにやとする大きめの仔猫を、「なんだ」とぶっきらぼうにせっついた。

「貴方が…あたしのことで悩んでくれとったというのが、嬉しいんです」
「…っ、だら。そげに深く悩みに暮れとったわけではない」

歪めた唇が視界に入るくらいむくれて、枕にしてあった腕をひょいと引き抜いた。
すとんと落とされた頭に、しかし布美枝は慌てる様子もなく、にこにこと身体をしならせていた。

「イタチのヤツが余計な知恵をつけやがったからだ。あんたが嫌がっとるんでないかと」
「浦木さんが?」

ひょんな名前が出てきたと思ったのか、布美枝は上半身を起こして茂を覗き込んだ。
そしてしばらく夫を見つめていたかと思うと、ふるふると身体を震わせ、
遂には堪えきれないというふうに、茂の肩を叩いて笑い出した。

「な、なんだ?」
「うふふふふ」
「何が可笑しい」
「あは、だ、だって。…浦木さんの言うことなんて、まともに聴くなって仰ったくせに」

ぎくりと左胸に杭を打たれたような衝撃が走る。
いつもぼんやりとしている布美枝に、まさか揚げ足を取られるとは思わなかった。
赤い顔をして何とか笑いを押し殺そうとするも、どうにもいかないというふうで、
布美枝は申し訳なさそうに、しかしいかにも愉快そうに笑っていた。

「意外とやっぱり、お二人は仲がええんですね」
「は!どこが」
「さては昼間あたしの噂話をしとられましたね?」
「べ、別に」

じろりと見下ろされるも、その口元はまだ緩んでいる。茂はむっとして背を向けた。
しばらくくすくすと笑う声が聴こえていたが、やがて小さなため息を吐き、
遠慮深げにもそもそと、茂の背後から布団に潜り込んでくる。
背中越しの温もりと柔らかさに、再び雄の内側が燻り始める。

(うーむ…。もういっぺん、というのは…許されるんだろか)

この接近が、布美枝からの誘いの合図だとするなら、据え膳喰わぬは男の恥ということになる。
女房に見られないようにほくそ笑んでから、ゆっくりと身体を回転させた。
茂の胴体に絡まっていた腕がするすると力なく解けていく。
閉じられた瞳から、伸びる睫毛の曲線が美しく、
ぷるんとした濃い桜色の唇は、物もいわずに茂を甘美に誘っていた。
蜜に吸い寄せられる熊のように、のそりのそりと体勢を戻し、布美枝を見下ろす。
何度重ねても柔らかさと甘さを失わない、布美枝の唇まであと1寸…。

「すー…」
「え」

ぱちくりと瞬いて、ひょいと頭を上げる。
件の女房は、既に独りで夢の中へと旅立ってしまっていた。
地団駄を踏みたい衝動を抑え、茂はがしがしと髪を掻き毟る。

(…………むぅ〜〜〜〜)

目にかかる前髪を、ため息で吹き上げた。

やがてそのうち、すやすやと無防備な寝顔を曝す新妻の顔に、
自らの節操のなさがやや照れくさくなり、茂は皮肉を込めて自らを鼻で笑った。

悔しいけれど、浦木の言うとおり。本当に女というのは何とも扱いが難しい。
やけに色気づいて誘って来たかと思えば、見事に翻して肩すかしを喰う。
弱いかと思えば芯は強く、強いかと思えばやはり頼りない。
恥じらいに身を縮めても、一枚剥いてやれば途端に淫らな顔を見せる。
すぐに泣き、すぐに笑う。難解なようで、単純で。
息が詰まったり、身体中癒されたり。振り回されたり、惹きつけられたり。

厄介で、面倒で、…けれど無性に恋しい。






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