プロスタグランジン
番外編


冬の冷たい風。乾燥した空気。暖房。紫外線。
張込みで徹夜。不規則な生活。乱れがちな食生活。諸々のストレス。


全てが肌に優しくない。


「若いときは平気だったんですけど・・・やっぱりもう、曲がり角かも」
「あらー薫ちゃん、それを私に言うなんてなかなかキツいわねー」
「いや、桜子さん肌、綺麗じゃないですか。私よりずっと」


いつもこの部屋に来て愚痴を聞いてもらう時に感じていた。
「美人監察医」という称号を自他共に認めるだけあって、桜子の美しさは群を抜いていた。
どんな凄惨な死体を見ても美しい顔を歪める事の無い彼女に、薫は女性ながらも見惚れてしまった事が度々ある。
厳しい仕事環境の中でも女を捨てないファッション。
そして何より、湯川や草薙に近い年齢とは思えない艶やかな肌が羨ましかった。

「内海、この機会に美肌のコツでも聞いといたらどうだ?」

今日はこの部屋に草薙も来ていたため、世間話から一歩踏み込んだことが聞けることになった。
実はこの瞬間に、他にも色々踏み込んでしまう(引っ張り込まれてしまう)ことになるのを、内海薫はまだ、気付いていない。

「桜子さん、美肌のコツとかあったら教えてください!!」
「そうねー・・・色々あるわよ?」

と桜子は手近な標本を持って美顔マッサージを教え始めた。

「こう、顔の内側から外側に向かって・・・それから首筋のリンパに老廃物を流す感じで・・・」

なぜか草薙まで真似て顔を弄り回している。


「あとは、十分な睡眠が一番大事だけど、この仕事だと私も満足に出来てないから、それを補う意味でも食生活――というか栄養ね」
「食事」「栄養」

もはや薫は桜子の生徒となって、きらきらと輝く目で桜子の言う事を復唱している。

「ビタミンはもちろん、脂質やたんぱく質も大切よ?肌を構成する成分と守る成分そのものを作らないと意味なくなっちゃう」

薫は必死にメモを取る。その姿は思春期の女子高生のようだ。

「お前、これを機にラーメンや牛丼控えれば?」
「はい!やめます!!」薫の目は本気だった。

そこで草薙も、そして桜子も、このきらきらと輝く薫を見て感じたことがある。

(ちょっとからかってみたい)
(ちょっとイイコト、教えちゃおうかしら)

薫にとっての不運は、自分の天敵が准教授一人だと思っていたことだ。
二人は一瞬アイコンタクトを取ると、「大変いい笑顔」で話し出した。

「なあ城之内サン、この前言ってた『とっておき』、教えてあげたらいいんじゃないか?」
「え、『アレ』?こまったわねー、かおるちゃんにはまだはやいんじゃないかしらー」
「な、何ですか何ですか教えてください!!!」

この白々しいまでの棒読みに薫は気付かず、目の前の釣針に食いついた。

「プロ・・・何ディン?」
「プロスタグランジンだよ、内海」

歌うように滑らかに発音された化学物質の名前を、薫はもちろん聞き取れなかった。親切な先輩に教えてもらいメモを取る。

「やっぱり美肌にはこれが一番じゃないかしら」
「飲んでもいいし、塗ってもいいし?」
「きっと、つやっつやになるわよ・・・?」

薫は気付いていない。自分にこんな素晴らしいことを教えてくれた先輩二人が、よりによってとんでもない悪魔であることを。
気付かないまま、彼女は自分で墓穴を掘り、そしてその中で自爆した。
墓穴で自爆するとは、何という手間要らず――とは悪魔二人の後日の感想である。

「桜子さん!!それ、私も欲しいんですけど、どうしたらいいですか?」
「困ったわね・・・私も自分の分しか持ってないのよ。簡単に分けられるものでもないし」

桜子が草薙へ華麗なロングパス。

「内海、あいつなら何とかしてくれると思うぞ?いくら変人と言ったって研究室持ちの准教授だ」

草薙、何という見事な稲妻シュート。薫はまっすぐヤツの研究室へ向かうだろう。

「ありがとうございます草薙さん、桜子さん!!私早速行って来ます!!」

ドアが閉まり、彼女の元気な足音が遠ざかる。悪魔二人はそれぞれに妖艶な笑みを浮かべた。

「ヤラシイね桜子ちゃん」
「ヤラシイのはお互い様じゃない?」
「ね、私もそろそろ補給したいんだけど」

桜子は草薙の袖を引いた。

プロスタグランジンが何に由来する成分なのか、
そしてそれを塗ったり飲んだりすることが何を意味することなのか、
薫は何も知らないまま悪魔の甘言に惑わされて第13研究室の扉を叩く。

知った時にはもう手遅れだろう。



「湯川先生!桜子さんと草薙さんに聞いてきたんですけど、プロスタグランジンてご存知ですか?」
「君はいきなり何を言っている。結論を先に述べるのはいいがそこに至るまでの過程を述べたまえさっぱり分からない」

薫は結論を聞いても話してもそれで納得してしまい、そこまでの過程を端寄る傾向がある。
それが度々の早とちり、トラブルの原因になるのだ。今回も例に漏れない。

「えと、お肌の話をしました。
桜子さんがプロスタグランジンは塗っても飲んでもいいって教えてくれました。
それで私、『欲しいです』って言ったんです。でも桜子さんも自分の分しかないから分けられないって言われて。
そしたら草薙さんが、湯川先生なら天才だし准教授だし研究室もあるから行って来いって言われたので来ました」

話を聞いているうちに、湯川は頭を抱えて机に伏せてしまう。

「君の脳は飾りか?僕は准教授で、相対的に見ると偉い立場だからそれが分からないのか?」
「今、ものすごく失礼なことを言われた気がします」
「頭で考えることをしないから体で覚える羽目になる、と言っている」
「そんなことありません!!」
「ではプロスタグランジンについて説明しよう。扱いによっては危険なものだ。
これを君にあげるのを見られた場合、僕も君も社会的地位を失う可能性が高い。
よってそれは見られるわけにはいかない。ドアの鍵と窓のカーテンを閉めたまえ」

薫はこれを聞いて硬直した。きっと何か薬のようなものを想像しているのだろうか。

「心配しなくても法には触れない、安心したまえ」

湯川が口にしたのは全て結論だった。「何故危険なのか」「何故見られるとまずいのか」「にもかかわらず何故法に触れないのか」が欠落している。
そもそも彼女は「それが何なのか」すら知らないのにもらいにくるのだから恐れ入る。
それでも、旧友から届けられた玩具のプレゼントはありがたく頂戴するとしよう。

さっさとカーテンを閉める薫の両手を掴む。そして腰から引き抜いたベルトで束ねた。

「え!ゆ、何するんですかゆかわせんせ!?」
「騒がしくては人目を忍ぶ意味がない」

湯川は薫の口を塞いだ。じたばたともがくプレゼントを自分の机の前まで連れて行き、床にぺたんと座らせる。
床にへたり込むような形で座り、おろおろしながら湯川を見上げる薫。
椅子に悠然と腰掛けて薫を見下ろす湯川。
その様子は教師と、叱られている女生徒だ。菅原さんはそんなシチュエーションのものを持っているだろうか。

――教授のト・ク・べ・ツ講義。

「プロスタグランジンの主な効能は二つ。ひとつは血管の拡張作用だ、これが肌にいいと言われるのかもしれない」
「それとこれとどんな関係が「もうひとつは子宮の収縮作用だ。陣痛促進剤にも使われることがある」
「1933年にヒトの精漿内に含まれていることを発見し、1936年に精液中から分離された」
「え」
「君が欲しいと言うものが何か、分かったか?」
「・・・この格好の理由は?」
「君は手や胴体の肌を改善したいのか?うちの研究生が気にしていたのは顔の肌だったが」
「顔・・・ですけど」
「では頑張りたまえ。心配は要らない。僕は全く気にしない、むしろ歓迎させてもらおう」
「ゆかわせんせ「飲んでも塗っても、君の自由だが、君から頼んできたんだ。終わるまで付き合おう」






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