磔の蝶 続編パターンA2
田上昇一×内海薫


「全く、理解できない」

自宅マンションへ帰る道すがら、湯川は憮然として呟いた。
瀟洒な住宅街を半分以上突っ切る形で、彼は帰宅を急いでいる。良好な住宅環境で知られるこの界隈に、
薫が指定したファーストフード店は存在しない。隣駅の商店街まで足を伸ばさねばならなかった。

『定期的に食べたくなるんですよ、チキン●ックナゲット。違いますって、湯川先生の手料理の方が
美味しいですよ。比較の問題じゃなくて、ほらあれです、別腹』

別腹の用法こそ間違っていたが、彼女の頼みだ。無碍には断れない。
たとえそれが、湯川が普段ほとんど口にしないジャンクフードの権化であってもだ。
何しろ、強引に休職願いを出させ、湯川のマンションに押し込めてから二ヶ月、薫は一日の全てを
室内で過ごしている。口の悪い草薙などは『軟禁』と揶揄するが、当たり前のことだ。犯罪者の犯行予告対象に
なっているものを、何を好き好んで外に出さなければならない?彼女のストレスを慮り、食事や娯楽には
気を配っている。人を保護するのは慣れっこでも、保護されるのは初めてらしい彼女は、遠慮ばかりで
需要を把握しづらかったが、こちらが思いつく限りのことはしてきた。その彼女が、初めて出した要求らしい要求が
これだった。チキン●ックナゲット。それほど美味なものだろうか。
好奇心もあって、歩きながら一つ拝借してみる。

「……ふむ」

悪くない。旨み成分は豊富と言えるし、食感もなかなかのものだ。しかし、栄養がたんぱく質と脂質に
偏りすぎている。味もやや薄い、何か調味料を足す必要があるのでは……と思いを巡らせているうち、
紙袋の底に容器入りのソースを見つけた。なるほど、これを添加するのか。では、部屋に帰り着いてから
本領を見せてもらおう。
薫の好物に謎の対抗心を燃やしてしまっていることに、湯川は気付かぬまま、マンションのエントランスに辿り着いた。

最初に気付いた異変は、部屋の扉だった。鍵が開いているのだ。開錠方向に回しているのに、手応えがない。
役割を果たせなかった鍵を引き抜き、扉を引くと、やはり何の抵抗もなく開いた。出発時、施錠は確実にしたのだが。
不安の渦巻くまま、玄関に立ち入る。居候の遠慮からか、いつもなら何をしていても飛んで出迎えに来る薫が、
その気配すらない。廊下に面した3つの部屋も、奥に続くリビングも、静まり返っている。

「内海くん」

眠っているのかもしれない。休日とはいえ昼日中に、彼女が眠ることはほとんどないが、それでも一縷の望みをかけ、
湯川は呼びかけた。返事はない。
靴と荷物を払い捨て、湯川はリビングへと直進した。ソファ。ダイニングテーブル。客間。
薫がいる頻度の高い場所を全て目視したが、その姿はない。遂には部屋中の扉を開け放ち、迷った挙句
シャワールームや手洗いまで突進したが、結果は同じだった。為所もなく彼女の携帯電話に電話をかけたが、
呼び出し音はリビングルームで虚しく響いた。
玄関に立ち戻り、湯川は直立のまま壁に片手を突いた。表情にほとんど変化はなく、傍目には分かりづらいが、
彼はかつてないほど動揺している。壁についた掌からは汗が噴き出していたし、全身を悪寒が駆けていた。
彼の大脳は悪い想像でいっぱいだった。彼女には、現状で外出することの不合理さを重々言い含めてある。
あの男に付け狙われている以上、今外に出ることは、命の危険を伴う。刑事の仕事は命あって初めてできるものだ。
よって、命よりも、仕事よりも優先される事象が起きない限り、外に出てはならないと。
湯川が外出したのはほんの30分ほど、この間にそんな重大な出来事が起きるとは考えにくい。とすれば、ここを
出たのは彼女の意思ではない。誰か、他の人間に連れ出されたのだ。
傲慢で酷薄な、あの男の顔が脳裏をちらつく。実のところ、鍵が開いていた時点で、あの男の影はほとんど湯川を
支配していた。まさか、あの男がこれほど無謀な賭けに出るとは思っていなかった。完全犯罪を目論んでいるだろう
あの男が、白昼堂々と監視カメラにその身を晒し、彼女の身を簒奪するなどと。ありえないと思っていたが、
起こってしまった以上は受け入れるしかない。少なくとも、今の危険を十分に理解し、休職さえ受け入れた彼女が、
ふらふらと外に出るよりは、実現可能性が高い話だ。自棄になったか。あるいは、一時的にセキュリティシステムを
停止させる小細工でも思いついたか。
いずれにせよ、行動は早いほうがいい。まずは管理会社に連絡を取らなければ。携帯電話に指を滑らせたところで、
エントランスの呼び鈴が鳴った。
湯川の心臓が割れんばかりに高鳴る。足取りこそしっかりしていたが、右手と右足を同時に出しながら、
ドアホンの操作パネルへ向かう。パネルに映し出された相貌を見たとき、湯川の緊張は弾けた。

「どうも……ご心配おかけしました」

ダイニングキッチンを隔てて向かい合う内海は、両膝に手を突いて頭を下げた。湯川は腕を組み、無表情でその様を
見遣る。指導室で対峙する教師と生徒さながらの光景である。沈黙は数分間続いた。

「あの……そろそろ宜しいでしょうか」
「何がだ」
「えと、あの、これ以上のお詫びは、他のことで示したいなと思って」
「何故だ?詫びるも何も、僕は君の危険かつ不可解な行為について、納得のいく説明を聞いていない。
趣旨も分からないまま、どんな謝罪を受け入れればいい?」
「説明したじゃないですか。引ったくりを捕まえに行ったって」
「それは事実の説明だろう。君が自分の命よりも軽犯罪の解決を優先した理由について、僕は何の説明も受けていない」
「だからそれは、身体が先に動いちゃうんですよ。理屈より先に。先生は、そういうことありません?」
「ない」

一言の元に斬り捨てられ、薫はまた俯いた。
彼女の言い分はこうだ。湯川が出てすぐ、ベランダに出て彼の後姿を見送った。本当はベランダに出ることも
禁じられていたのだが、背を屈めて外から見えないようにすれば大丈夫だと思った。手すりと壁の隙間から、
湯川が直近の角を曲がったのを見届け、息をつき、部屋へ戻ろうと思いながら座り込んだ。久しぶりの日の光が
心地良かったのだという。そうしているうち、外で悲鳴が響いた。ほとんど反射的に立ち上がって外を見下ろすと、
マンションのすぐ傍で、バイクに乗った男と老婦人がバッグを取り合っていた。見渡したが、二人の他に人の気配はない。
脱兎のごとく部屋を飛び出し、エレベーターに乗って、現場に急行すると、老婦人は既に突き転ばされていた。
大きな外傷のないことを確認してから、老婦人の指し示すとおり走って追いかけると、少し大きな通りであのバイクが
信号待ちをしていた。『そこのひったくり、待ってなさい!』と大音声で呼びかけると、慌てたバイクは急発進し、
左折しようとして転倒。そのまま御用となった。警察がやってきて、一通りの事情聴取に応じた時点で我に返り、
そそくさと帰ってきたのだという。
そういえば、ファーストフード店からの帰り道、近くで救急車を見たし、交差点に人だかりができているのも見た。
嘘ではないのだろう。しかし、問題はそこにはない。

「たとえばだ。その引ったくりがあの男の自作自演だったら、君はどうしていた?」
「……あ」

考えてもみなかった、という表情で薫は顔を上げた。

「で、でも、ぱっと見た感じ、全然別人でしたもん。バイクの子はまだ子ども子どもしてて、実際まだ未成年で、
体格からしてあいつとは全然」
「バイクの少年もあの男に雇われただけかもしれない。ホテルで君を襲った人間と同じように。老婦人も同様で、
あの男が待ち構えている方向へ君を差し向ける。あとは車にでも押し込めてしまえば、拉致は完了だ」

「あの……でも、ほら」

薫は取り繕うような笑顔を顔に貼り付けて、ポケットから何かを取り出した。護身用のスタンガンらしい。

「先生には内緒にしてましたけど、これ、こないだ通販で買っちゃったんです。いい加減、私も閉じこもってばっかり
いたくないし、自分で身を守ることができれば問題ないでしょう?」

伝家の宝刀のごとくスタンガンを構え、薫は滔々と語った。湯川は頭痛を堪えて眉間を押さえる。

「君はそそっかしいが、頭は良いと思っていた」
「あは、どうも……って、褒めてないですよね?」

口調こそ突っかかったものだが、湯川が冗談を言っていると思っているのか、薫は安堵の表情を見せている。
それを凍りつかせたのは、湯川の行為だった。不意に椅子から立ち上がり、釣られるようにして立った薫の手首を
捩り上げたのだ。

「いった……!」

スタンガンがごとりと床に落ち、薫が逃げようとした巻き添えで、椅子まで倒れた。2つの衝撃音と、薫の心外そうな
視線を受けても、湯川は顔色一つ変えない。

「こんな玩具紛いの代物で自衛できると、君は本気で思っているのか?相手はどんな武器を持っているか知れない。
たとえ丸腰でも、君は女性で、彼は男だ。一対一で向き合えば最後、勝ち目はない」
「そんなの、やってみなきゃ分からないじゃないですか!」
「やってみるか?体格・年齢から言って、僕はあの男より腕力が劣るだろうが、君を捻じ伏せるくらいは容易い。
その玩具を拾いたまえ。試してみよう。万が一、この部屋を出ることができれば、君の勝ちだ」

湯川は薫を突き放し、廊下への出口を塞ぐ形でリビングの一点に立った。湯川の意思を察したらしい薫は、
きゅっと唇を噛んでスタンガンを拾った。身構えて、間合いを取るようにダイニングテーブルの向こうへ回る。
さすがに、警察学校で訓練を受けているだけあって、いきなり向かってくるような下手は打たない。
が、時間の問題だ。その時間も詰めてやるため、こちらがわざと隙を見せれば、思ったとおり向かってきた。
スタンガンをかざした手さえ注意して避ければ、何のことはない。隙だらけになった背後に回り、両の手首を
思い切り掴み上げる。他愛無くスタンガンは落ち、暴れる身体を押さえつけてやれば、ソファまで引きずっていくのは
容易かった。背中を叩きつけるようにしてソファに倒し、起き上がろうとする華奢な身体に体重をかけてのしかかる。

「あっけないものだな。もう終わりか?」
「く……う……!」

顔中に悔しさを滲ませ、薫は両足をばたつかせた。急所を蹴り上げたいのだろうが、こうしてこちらの片脚で
彼女の両腿を押さえている以上、物理的に不可能だ。

「諦めるんだな。そして自分の無謀さが身に沁みたら、もう2度と危険な真似はしないと誓ってもらおう」
「嫌です!」

薫は負けず嫌いらしい強情さで降伏を拒否した。

「まだ終わってません!絶対逃げてみせます!」
「……ほう」

湯川の胸に、未知の火が宿った。逃げる?ここから?この僕からか。
湯川は薫の両手を自らの片手の中に纏め上げ、空いた手で彼女の襟元を掴み、ボタンごと引きちぎる。
薫の頬にさっと朱が滲んだ。

「ではどうすれば終わる?君を犯せばか。それとも殺せばか?」
「い……!」
「あの男ならすることだろう?僕は止める気はない。君が止めたまえ」

湯川は薫の露出した鎖骨に舌を這わせた。ついで、首筋の目立つ部位に吸い付く。恐怖でも羞恥でもいい。
彼女をこの部屋に繋ぎとめておけるなら、構わない。ひどく身勝手な思いが、湯川を支配していた。

「嫌っ!」

現実に引き戻してくれたのは、薫の叫び声だった。ついで、彼女の頬に触れた額の、濡れた感触。
薫はすっかり色のなくなった唇を震わせて、泣いていた。湯川が自分の行為の残酷さに思い至ったのは、
それを見たときだった。あの男に襲われたときの死と陵辱の恐怖を、まざまざと思い出させてしまったのだ。
湯川は憑き物が落ちたように薫から離れ、詫びた。

「すまない……どうかしていた」

薫は背もたれに額と脛をを押し付け、隠れるようにして泣いていたが、湯川の詫びに対しては首を横に振った。
自分の軽挙こそ詫びるとでもいうように。
湯川は罪悪感に押しつぶされ、その場に座り込んだ。理屈で考えるより先に、身体が動いたことなどないだと?
一体どの口が言ったんだ。ひとしきり奈落に沈んだ後、湯川はふらりと立ち上がった。何か目的が有る訳ではない。
ただ居た堪れなかった。

「待って」

その当てもない歩みは、薫の掠れた声でぴたりと止まった。石像のようになった身体に、背面から薫が触れてくる。
いつもながら、表情こそそのままだったが、血圧と心拍数の尋常でない上昇を湯川は自覚していた。

「行かないで下さい。行かないで」

薫の指先が、湯川の背中の表面で震えていた。追い詰められた恐怖が、背の皮膚と骨を貫くようにして伝わってくる。
自分がこれほど卑怯な男だとは、こんなことになるまで知らなかった。恐怖の只中に置去りにして、自分だけ
逃げようとするなど。
湯川は薫の手を取り、彼女に向き直った。

「どこにも行かない。約束しよう」
「……」

外聞もなく、顔をくしゃくしゃにして泣きながら、何度も頷く薫を、湯川は親が子にするようにして抱いた。
『だから君もどこへも行くな』とは、どうしても言えなかった。あんなことをしたのだから、当然といえば当然だが。
どうか、あの男が逮捕されるなり死ぬなりして、彼女の危険が除去されるまで、自分の理性が持ってほしい。
このままでは獅子身中の虫になりかねない。だが、だからといって彼女を手放して、そのために彼女を失うようなことがあったら、
それこそ自分は何をするか分からないのだ。自己への猜疑心と、足元が崩れるような不安との板ばさみになりながら、
その2つの通底となっている感情の正体に、湯川はようやく気付いた。
そして、板ばさみを解消するたった一つの方法を思いつき、実践した。どこまでも、彼は合理的だった。

「内海くん。落ち着いて聞いてくれるか」
「……はい」

いくらか気分が落ち着いたらしく、薫が応じる。彼女の両肩を抱く形で、湯川は正面から彼女と顔を付き合わせた。

「これから言うことは、僕が君を今後も保護することとは別問題と考えてほしい。君がどんな答えを返そうと、僕が現状で
君の最適な保護者であることに変わりはない。不本意な女性と無理やり事に及ぶほど、僕は卑怯ではないからだ。
先ほどは思い余ってしまってしまい申し訳なかったが、未遂に終わらせた点も斟酌してほしい」
「は……あ……」
「いや、どうも回りくどくなっていけないな。つまりだ」

何言ってんですか、全然意味分からないんですけど、と薫の顔に書いてあったので、湯川は仕切り直した。

「僕は、君を抱きたいと思う。無論、恋愛感情からだ。構わないだろうか」
「……は?」

薫は鳩が豆鉄砲を食らったような顔でぽかんと口を開けた。

「………」
「………」
「………」
「………」
「まだなのか」
「え?」
「答えを待っているんだが」
「え、だって、今、何で」

薫はしどろもどろになって、空中で泳ぐような訳の分からないジェスチャーをした。

「どういう流れなんですか?急にそんなこと、冗談じゃないんですか?」
「生憎と真剣だ。僕はさっき、あやうく君をレイプしかかって気付いた。君を抱きたい。君の合意を得た上でだ。
こんな非常時に歯止めが利かなくなるほどの欲求なのだから、どれほどのものか察してほしい」
「よ、欲求って」
「君をどこか別の安全な場所に託して、一旦距離を置くことも考えた。だが、そんなことをしてもし君を失ったらと、
考えるだけで恐ろしい」

言いながら薫を再び腕の中に納めようとして、慌てて離した。まだ了解を得ていない。ただでさえ衝撃の告白を
受けているところを、物理的にも振り回されて、薫は混乱している。

「すまない。何もすぐにとは言わない。それと、繰り返すが、このことと、僕が君を保護することとは別だ。
もしも芳しくない答えなら、今言ったことは全て忘れてほしい」
「は……はい、あの」

薫のほうも緊張は同じようで、返事は深呼吸の後に返ってきた。

「……いいと思います」
「いいとは?」
「とは、つまり、その、私も先生のこと好きだなって」
「ダナッテ?」
「好きです。前からでしたけど、一緒に暮らすようになって色々、意外と優しいんだなとか、可愛いんだなとか」
「……」
「あ、意外とは余計でした?」

黙り込んだ湯川を案ずるような薫の声を、遮るようにして湯川は笑い出した。ハハハハハ、という抑揚のない笑い声は、
常人には不気味でしかないが、天才なりの喜びの表現だった。幸い、鉄道クモハを見たときの彼の爆笑ぶりを知る薫は、
それを察していた。

「実に喜ばしい」
「ど、どうも」
「では、早速事に及ぼう」
「え、今ですか?」
「今だ。言ったろう、歯止めが利かないと」

湯川は言うが早いか易々と薫を抱き上げ、寝室に運んだ。こんな昼間から。お互いこうなるとは予測していなかったから、
思い切り普段着で。薫は色々と突っ込みたかったようだが、湯川は敢えて無視した。都合良く、薫を捜索したときの
名残で、寝室の扉は開け放たれている。薫をベッドに降ろした後、湯川が後ろ手に締めたその扉は、翌朝まで
開くことはなかった。

「……もう……いい加減にして下さい、お腹空きました」
「こんなときでも空腹を感じるのか、君は」
「当たり前でしょ?何時間してると……あ、ナゲット!●ックナゲット!今ちょっと匂いしました、
どっかにあるんでしょ?」
「君はあの店に関する噂を聞いたことはないか」
「噂?」
「学生が話していたのを聞いたことがある。低廉な価格と味とを両立させるため、公称とは異なる食材を使っているらしい。
たとえばあのナゲットだが、食感が××ルの肉と酷似しているそうだ」
「×エ×?!」
「僕も試しに一つ食べたが、確かに昔フランス料理で食べたものとよく似……」
「嘘っ!絶対嘘!信じませんからね!湯川先生の馬鹿!」

そんなこんな、嘘八百で弄ばれつつ、結局朝まで放してもらえない薫だった。






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