湯気る(くもる)(非エロ)
湯川学×内海薫


「ちょっ……先生!」

咄嗟のことに薫の体は対応できず、辛うじてできたのは声を出すことだけだった。

「先生!湯川先生!」

薫を組み伏せた湯川は、表情はいつも通り冷静なまま、しかし鬼気迫る勢いで彼女の衣服を剥いていく。仕事着のスーツならともかく、比較的脱がせやすい浴衣なのが災いした。
刑事というハードな職業に似つかわしくない白い肌が外気に晒される。そこに片っ端から、湯川は刺激を与え始める。

「せんせ……やっ……!」

薫がいくら懇願しようとも、湯川は手を休めない。
突き、なぞり、時には強弱を変えて。
上半身をやりつくしたら、間髪を入れずに下半身へと。
湯川は、薫の体を隅から隅まで蹂躙していった。

「……っ」

悶える薫。もはや完全に身を任せてしまっていた。しかし湯川は突然手をとめると、「フレミングの法則」を表すような手つきで顔を抑え――しばしの沈黙の後、

「実に面白い」

そう呟くと、湯川は部屋を出て行った。ずっと握っていたマジックペンを放り投げて。
あとには、体中に数式を書かれた薫だけが残された。

「ほんっと――あの変人は!」

憤りに任せて、薫は頭からお湯をかぶった。誰も居ない深夜の風呂場に、荒々しい水しぶきの音がこだまする。
あのあと、湯川は薫をほったらかしにしたまま帰って来なかった。すっかり耳なし芳一にされた薫は、風呂で体を洗っていた。
水性ペンだったのがせめてもの救いである。

「……畳や襖に書いて、旅館の人に怒られなかっただけマシかな」

そんな理屈で納得してしまうのは、自分があの変人に慣れてしまったからだろうか。
体にインクが残っていないことを確認し、薫は湯船に身を沈めた。
自分がこんな目に遭うはめになったいきさつを呪いながら――
事件は、その日の早朝に発覚した。
とある温泉宿の露天風呂で、亡くなっている老人が発見されたのだ。
老人は業界では知る人ぞ知る資産家で、大の温泉好きであったという。
それは心臓を患ってからも変わらず、事件当日も家族と温泉に浸かりに来ていたとのことだった。
第一発見者は老人の秘書。家族旅行に同行しているあたり、家族ぐるみの付き合いであると思われる。
老人を温泉から引き上げたのも彼であり、怪しい動きはなかったとその場に居合わせた老人の孫娘が証言している。
もっとも、彼に人を呼んでくるように言われ、しばらく老人と二人きりにさせてしまったそうだが。

「先生は、一番風呂、特に朝に入るのが大好きなお方でした。家族の皆様も、こんな心臓によろしくないことを続けていてはいつか……とは思っていたのですが、現実になってしまったようです」

秘書の男は、しばしば眼鏡を押し上げて目頭を拭いながら証言した。
その証言に矛盾はなく、争った形跡もないので、現場検証をした警官たちも心臓麻痺による自然死として結論が固まっていた。
そこにやってきたのが、薫と湯川であった。

「旅行先で事件があるなんて、ドラマじゃあるまいし」

そう愚痴っていた薫だが、湯川が「さっぱりわからない」と自主的に言い出したことで事情が変わる。
変人と知るが故に野放しにできない手前、彼の「捜査」のフォローをしなければならなくなった。主に肩書きで。
そして一通りの情報を聞き出してようやくチェックインした矢先のスーパー推理タイムである。
宿について以来、湯川と会話らしい会話など一度もしていない。薫には、湯川が自分から事件に乗り出したことも含めて、避けられているように思えてならなかった。
そもそも、なぜ二人だけで温泉旅行などという事態になったのか。
もともとは、湯川ゼミの学生に「ゼミで旅行に行くんですが、いっしょに来ませんか」と誘われたのだった。
「もちろん湯川先生も来ますよ」という付け足しには少し引っかかりがあったものの、仕事の疲れを取りたいと思っていた薫はその話に乗った。
ところが期日が近づくにつれ参加予定者が一人抜け二人抜け……気がつけば、行くのは薫と湯川だけになっていた。
ちなみに客観的に言うと、これは「ハメられた」という状況なのだが、薫に理解できるはずもなかった。
ガタ、と入り口の戸が揺れる音がする。誰かが手をかけたのだ。
忘れていた。時間が遅いだけに、今は混浴となっているのだった。はっとして肩まで湯に浸かる薫。そして、風呂場に入ってきたのは、

「湯川先生」
「気にしないでくれ。実験中だ」
「無茶を言わないでください」

現れたのが見ず知らずの男でなかったことに若干安堵しつつも、では湯川ならいいのかと自問して思い直す。
よく知っている変人だからこそ危ないかもしれない。身構える薫だが、湯川はそこを動こうとしなかった。

「先生?」
「何も見えない」

思わず、脱力する薫。

「眼鏡、曇ってますよ」

本職の湯川を差し置き、極めて論理的に指摘する薫。湯川の愛用の眼鏡は、風呂場に充満する湯気によって白く染められていた。何も見えなくて当然だ。

「そう、湯気とはそういうものなんだ」

当の湯川は薫の指摘を「当然」と言わんばかりに受け流すと、風呂場に足を踏み入れる。

「――って何で入ってくるんですか!」
「この時間帯は混浴だろう」
「わかってるなら遠慮してください!見るな!」
「今さっき、何も見えないと言ったはずだが」

確かに、だいぶ覚束ない足取りだ。滑って転ぶ姿が眼に浮かぶ。
薫は、覚悟を決めた。

「わかりました、見えていいです。死なれると困りますから」

薫は湯川と隣り合って浴槽に浸かっていた。
湯船に入ると、湯川は目蓋を閉じ、再び「見えない」状態をアピールした。薫の位置を確認するために、その手は彼女の肩に置かれている。
薫は否応にも、ペン先でとはいえ彼女の体を湯川の手が走り回っていたのを思い出してしまう。

「あの秘書は、眼鏡をかけていたな」
「……そうですね」

平静を装うのに、思いのほか苦労した。湯川の言葉がやけに魅惑的に聞こえて、その一言一句ごとに体に刻まれた数式が疼くような気がしたのだ。
とっくに洗い落としているというのに。
今の湯川は、論証モードに入っている。これまでの付き合いで、微妙な雰囲気の変化はだいぶ読み取れるようになっていた。
だが、今回のように体で感じるなんて初めてのことだった。

「眼鏡は湯気で曇るものだ。しかし秘書の彼は、老人を見つけて風呂から引き上げるという作業を、眼鏡をかけたままやってのけた」

「あ」

と声を出す薫。気がついた勢いの他に、疼きに我慢できなくなった、という理由もあるなどと口が裂けても言えない。
気づいたものの、薫はそれが何を意味するのかまでは読み取れない。

「その事実からは様々な解釈を選び取れるが、僕はこう思う――内海くん、どこだ?」

何となく危険を感じ体を離していたら、湯川は手をばちゃばちゃと動かし始めた。
仕方なく、再びその手を薫の肩に添えさせると、落ち着いた様子で続きを語り出す。

「老人の浸かっていた温泉は、偽者だ」
「……じゃあ、老人が浸かったのは何だったんですか?」
「露天風呂の手前に、水風呂があったろう。あれだよ。いかに温泉めぐりを趣味とする老人の心臓といえど、冷水に浸けてしまえば、ひとたまりもないだろう」

年寄りの冷や水、という言葉が脳裏をよぎったが、湯川の講釈をさえぎってまで発言する必要もないと薫は判断した。代わりに、妥当な質問を口にする。

「でも、冷水に湯気は立ちませんよ?とても温泉と間違えるなんて……」
「ドライアイスだ」

グルメ番組などでは、できたての料理をアップにする演出が見受けられる。
だが、そのとき立ち上っている湯気は本物ではない。本物ならば、さきほどの眼鏡のように、カメラのレンズが曇ってしまうからだ。
故に、そういった演出をするときは画像を加工するか、ドライアイスが使われる。
湯川は以上のことを説明し、結論にかかった。

「犯人はドライアイスを周囲に配置して、冷や水の溜まっている浴槽を温泉に見立てた。
老人は偽装に気づかずそこに入ってしまい、心臓発作で身動きがとれなくなり、絶命した」

薫は身震いした。老人の追体験を錯覚したからだろうか。

「ただし、確実に殺せるとは言い難い。相当に運任せの罠だ」

そう言い捨てたきり、湯川は黙ってしまった。

薫は考える。
そのトリックが用いられていたとすれば、秘書は嘘をついたことになる。
老人を引き上げようとした時点で、温泉ではなく冷水であることに気づいたはずだ。それを証言しなかったのは、彼自身がトリックを仕掛けた張本人だからか。
しかし、実行犯にしては詰めが甘い。仮にも工作に使用するのだ、湯川の講釈したドライアイスの特性くらい知っていてもおかしくはない。
ところが彼は「眼鏡を外して作業をする」という芝居すら打たなかった。

「犯人は別にいて、その誰かをかばっている?」

そこまでが限界だった。のぼせてしまったのか、頭が回らなくなってきた。
明日、秘書に改めて尋問してみればいい話だ。薫の仕事モードはそこで解除された。
おかげで、今まで忘れていられた現在の状況を思い出すことになってしまったが。

「……湯川先生?」

本当は呼びかけるつもりはなかった。いくら何でもこんなに早くのぼせるなんて、もしかして湯川先生が近くにいるからかしら、
と本人の前では死んでも口に出したくない論述の最中だったからだ。
だが何の反応もない湯川に不安を感じた。のぼせて気を失ってしまっているのではないだろうか、と。
その矢先に、湯川は薫の背にもたれかかってきた。

「何やってんですか!」

それからの薫の行動は早かった。
ぐったりしている湯川を連れて部屋まで撤退すると、ラフに浴衣を着せて、さっさと布団の上に寝かせたのである。無駄のない作業だった。
一仕事終えたあと、何かに誘われるように、寝息を立てる湯川の顔を覗きこむ――ような気分にもなれず。
どっと疲れた薫も、すべてを後回しにして寝ることにした。

秘書は逮捕された。朝一番で、湯川の推測を伝えられた刑事たちの尽力の賜物である。
薫が考えを巡らせたところまでは明らかになっていないが、白黒つくのはそう遅くならないだろう。案外、秘書が凡ミスを犯しただけ、という落ちかもしれない。
改めて振り替えると、湯川が乗り出すほどの事件ではなかったように思える。だが殺人事件として犯人を逮捕できたものの、もし曇りにくい眼鏡だったら、など、推理に見落としがないこともなかったのでおあいこか。

「僕としたことが、慎重さに欠けていた。物理学者にあるまじきミスだ」

見落としがあると申告したのは湯川自身だった。

「いつもは実証できていないとかいって、嫌味なくらいもったいぶるのに」

ここぞとばかりに湯川へ意趣返しをする薫。それを聞きとがめたのか、硬く目蓋を閉じたまま湯川の唇が動く。だが、それは薫への反論ではなかった。

「不謹慎なことだが、僕は旅館で事件があったと聞いたとき、助け舟だと思ったよ」
「え?」
「もし捜査をしていなかったら、君とどう過ごせばいいのか、さっぱりわからなかった」

薫は動揺する。いつもマイペースな変人ガリレオが、こんなことを口走るなんて。湯川もまた動揺しているであろうことは、その行動から容易に読み取れた。

「先走って仮説を語ったのも、何でもいいから君と話したかったからかもしれない」

これは、どう反応すればいいのだろうか?
湯川の表情を見る。いつも通りの、崩れたところなど予想できない端整な顔だ。

ふぅ、と溜息が出る。

薫もまた、人のことは言えないと自覚していた。湯川と、事件抜きで話したいことはいっぱいあるような気がするが、言語化には困難を要する。予想外の邪魔にぶちぶち文句を言いつつも、心のどこかでは、この機会をなぜか危機的に見ていた自分もいるのだ。
結局、もうしばらくはこの距離感がお似合いということだ。
薫はそう結論づけた。

「ガリレオの眼鏡もたまには曇るんですね」

曇らせた原因が何なのか、それはまだ実証できていない。






SS一覧に戻る
メインページに戻る

各作品の著作権は執筆者に属します。
エロパロ&文章創作板まとめモバイル
花よりエロパロ