湯川学×内海薫
![]() 季節外れの台風が接近し、空が荒れ模様になり始めたのは午後に入ってすぐのこと。 「あー、もう最悪」 思わず呟いて、眉根を寄せる。 髪の毛からパンプスの爪先まで洩れなくずぶ濡れとなった内海薫は、 剣呑な表情で真っ暗な空を見上げた。 ―――― すぐに強烈な雨(豪雨と言っていい)が容赦なく顔を叩きつけて 来た為、慌てて俯き加減に下を向いて歩き出す。 ごうごうと唸り声をあげて、道路全体が揺れているようにも見える。 視界は暗く、細身の体は強い風に煽られる。 泥が跳ねようが頭から水を被ろうが、最早ほとんど変わらない体となった薫で あるが、だからといって長々顔から雨に打たれる行為が楽しく感じる理由には 勿論、なる筈もない。 目的地まで、黙々と歩みを続けるだけだ。 そう、時々悪態を付きたくなるのは別として。 (……なんで、今日に限ってこうなのよ) 約束の時間はとうに過ぎている。 理由は幾つもあった ―――― というか、不幸な偶然が重なったともいえた。 思い返せば、朝からツイていなかったのだ。 毎朝チェックしているニュースの占いは最下位だったし、 先輩刑事の弓削は昨夜の合コン(全く元気なものだ)が不発だったようで、 不本意な八つ当たりを受けるし。 それを皮切りに、不運は連鎖した。 先ず、薫が担当している事件の1つの実況見分が、予想以上に時間が掛かって しまったのが1つ、 (天候が関係したのは言うまでも無いが、被疑者の言い分が供述時と二転三転した のだから腹が立つこと甚だしい) 出掛けに妙な相談の電話を受けてしまったのが1つ、 (それは以前に担当した事件の関係者からの電話だったけれど、相談というよりは 就職難への愚痴に近かった)、 今日に限って愛車を車検に出してしまっており、足がなかったのが1つ、 そんな訳で目的地まで電車で向かったはいいが、混雑している上に本数が 減らされており、大幅に時間が狂ってしまったのが1つ、 ようやく駅に着いたら見事なまでにタクシーが全て出払ってしまっていたのが1つ。 ここまで想定外のことが重なると笑うしかないのだが、笑っている時間も惜しい。 いうことで、即座に決断した薫は最寄駅で購入したビニール傘を手に暴風・豪雨の中へ 果敢にも踏み出したのだった ――― と、そこまではいいのだけれど、 ものの数メートルと行かないうちに、傘は骨組みが剥き出しになる程に壊れてしまい、 (要はビニール部分がすっかり取れてしまった状態な訳だ)、 鞄を抱えた両手の平は数分の間に冷え切ってしまっている。 髪の毛が濡れて頬に張り付くのをかきあげながら、薫は雨に紛れて溜息をついた。 (こんな状態で行ったら、馬鹿高い機器に支障が出ないかな。や、それより…) 『一体何をどうしたらそんな大層な濡れ鼠が出来上がるんだ。全く策を講じず何も考えず に警察を出て来たとしか思えないな。キミは本当に…』 正論だけに言い返し辛い、妙にリアルな苦言が頭を過ぎり、我知らず薫の眉間に皺が寄る。 仮に、ずぶ濡れの女性を目の前にした大方の男性が口にするような、 例えば ――― 『大丈夫か?風邪ひくなよ』 などといった“普通”の言葉など、彼に求めてはいけない。 そう、 今日の訪問相手である通称ガリレオ先生は、“変人”として名高い科学者なのだ。 雨に打たれて黒々とした建物が目前に迫り、薫は足を速めた。 「こんなに遅くなって、湯川先生怒ってるかもなぁ…」 嫌味の1つや2つ、3つや4つは我慢しなくてはならないかもしれない。 加えて、薫にとって天敵である彼の助手である栗林がいれば、それこそ何を言われるやら。 湯川、の名前を口に出した瞬間、否応なしに薫の表情は引き締まった。 そうだ、自分は今日ここに遊びに来た訳ではない、一警察職員ととして大学准教授である 湯川学氏に捜査上依頼していた実験の結果を聴取しに訪れたのだ。 “帝都大学物理学科第十三研究室” 「まったく、一体何をどうしたらそこまで盛大にずぶ濡れになることができるんだ君は」 「……やっぱり言いましたね、開口一番にそーいうことを…」 コンコン、とノックを2回、「失礼します」とドアを開けた途端に、自分を迎え入れた湯川学の 第一声があまりに想像通りだったため、薫は力ない溜息と共に唇を屁の字に歪めた。 「特別なことなんてしてません。駅から出た途端に傘が壊れたんでそのまま歩いて 来たらこうなったんです。試してみますか?」 「遠慮しておこう。大体、そんなことは実験するまでもなく分かる筈じゃないのか?」 「えーえーすみませんでした、どうせ台風の中傘も差さずに突っ走ってくるような馬鹿ですよ あたしは!別に湯川先生なんかに優しい言葉なんて期待してなかったけど、する訳無い けど、も少し心配してくれるようなこと言ったってバチは当たらないんじゃないですか!?」 憤然とまくしたてる薫の髪の毛から、ぽたりぽたりと雫が落ちる。 スーツからパンプスの爪先まで既に濡ネズミ状態の薫にとってそれは微塵も気にする 要素にはならなかった。 「仕方なかったんです、今日に限って車は車検に出しちゃってるし…1日くらいなら代車も 必要ないと思って頼んでなかったし、台風きてるし電車は動かないしタクシーは駅に いないし、頼みの綱の傘はすぐ壊れちゃうし…… 約束の時間は守れなかったけど急いでなかった訳じゃ、ないんですからね!」 度重なる不幸を指折り数えると、こうまで自分は運に恵まれなかったのかと愕然とする。 とはいえ、その半分は自身の不注意であったり、未然に防げた筈のトラブルなのだから 情けないことこの上ないのだ。 口に出すと悔しいので、自然と湯川に八つ当たりするような口調になってしまう。 そうか、と呟いて湯川は顎に手を当てて言った。 「漫画のような話だな」 「漫画って……」 湯川先生、漫画なんて読むんだ?……などと冷静な突っ込みすら浮かばず、 必死の力説を、どう見ても真面目に感心した面持ちで実にあっさりと湯川が受け止めている 様子なのを見て取って、思わず脱力してしまう薫だった。 ――― もういい。湯川先生に心配してもらおうなんてあたしが馬鹿なんだわ。 首を小さく傾けて、ひっそりと細い溜息1つ。 「もう、いいです」 完全に毒気が抜けてしまい、ついでに気も抜けた状態で薫は顔を上げた。 どこか拗ねた調子になってしまったのは、矢張り慰めて欲しかったという子供じみた 願望があったからかもしれない。まさか、薫が素直に認める筈はないけれど。 「帰りは大人しくタクシー使います。 そんな訳で、早く帰りたいので実験結果を聞かせて欲しいんですけど。それから、 事件について先生の個人的な見解や見立ても、出来れば」 「………あぁ、」 そこで初めて湯川が言い淀んだ。 「あれなら、まだ結果は出ていない」 「へっ?」 大きな目を見開いて、薫が思わず素っ頓狂な声を上げる。意味を反駁し、正確にその 意味を理解してからようやくショックが襲ってくる。 「まだ……って、ええーっ!?だって、」 「キミが遅れると電話してきたときに、僕はちゃんと伝えたぞ。言いたいことだけ 捲し立ててすぐに通話を打ち切ってしまったのはキミの方だ。内容が伝わったか どうか、確認しなかったのはこちらの落ち度と言えば落ち度だが」 「嘘っ!あ、でも、えっと…」 確かに、電車の乗り継ぎの際に雑踏の中で電話を掛けた記憶はある。 ただ、人込みの中で長々話をする気にはならず用件だけを伝えてすぐに 切ってしまったのもまた、事実だ。 「ちなみに、電話を受ける前にメールも送ってある」 それこそ「う、うそ!?」である。 慌てて携帯電話を取り出し、液晶に目を走らせた。 メールの着信が1件。発信元は湯川学。 内容を開き確認するまでもない、それもまた、事実のようだった。 何故、電話を掛けた時に着信に気付かなかったのだろう。注意力の無さを嘆いても 今はもう、当然ながらに遅い。 「あたしって…」 (ここまでそそっかしい人間だった?) ガックリと肩を落とし、軽く眩暈を覚える薫の姿に、さすがに湯川も間の悪い表情を浮かべる。 口を挟んだのはフォローのつもりだろうか。 「もっと早く連絡すれば良かったのだが、学会が長引いて後回しにしてしまった。ここまで 天気が荒れると思わなかったんだ。…悪かった」 「いいんです、あたしが間抜けなだけなんですから…っていうか、素直に湯川先生に 慰められると、なんていうか余計、ちょっと、ショックなんですけど」 「口が減らないな」 「普通に落ち込んでるんです、これでも」 それはそうだ。 ただ約束を遂行する一心で当直明けの体に鞭打って、台風の中を這うようにやって来た はいいものの、本来ならそれは後日に回せばいいだけの必要のなかった行為なのだから。 「それでどうする、これから」 「帰ります、……ちょっと、疲れたし」 やつれた表情で力なく笑う薫を無碍に追い出すほど、湯川も冷たい人間ではないらしい。 「タクシーを呼ぶから少し待っていろ」 言うなり、備え付けの電話に手を伸ばす。 手近な椅子を引き寄せ、大人しく(この研究室においては非常に珍しいことに!)薫は彼の 動きを目で追っている。ぼんやりしているのはこの際、仕方のないことと言えよう。 と、電話の応対をしていたその湯川の表情がやや動いた。 困ったような、気の毒そうな、ともかく微妙な感情を浮かべた ――― 薫にとってはあまり 馴染みのない珍しい顔で、 「ああ、いえ、では他も当たってみます」 と早口に言って、受話器を置く。 「どうかしたんですか?」 その反応に少しばかり不安を覚えた薫が思わず聞くと、 「急いでも1時間以上はかかるそうだ。この天気でタクシー会社は大盛況のようだな」 無感動に湯川が答え、「他も当たってみるか」と続けた。 「………はぁ」 どうやら、どこまでも不運は連鎖するらしい。 湯川の返事が芳しくないことには、別段驚きもしない。ただ少し、疲労感が増しただけだ。 やや唇の端を上げる仕種は、引き攣った笑みを生んだ。 疲れ切っているせいか、平常時の薫よりも、反応は冷静だった。 「…どうせ、他のタクシー会社ももあまり状況は変わらないでしょう?こんな天気だし、 時間も時間だし。もう少し待ってみます。 あ、すみませんけどここで待たせてもらってもいいですか?」 問われて、ほんの少しの間、湯川が逡巡を見せた。 「構わないが、その恰好でか」 無遠慮に投げ掛けられる全身への視線に、そこでようやく、薫は身体を見下ろした。 水も滴るイイ女 ――― とは程遠い、ずぶ濡れの自分。 濡れた髪の毛はぺったりと首筋や額に張り付き、身につけているスーツはおろか インナーのシャツも下着すらも絞れる位にずっしりと水分を含んでいた。 「……あ、あー…」 薫が立っている足元に、小さな水溜りでも拵えてしまえそうな勢いだ。靴の中でさえも、 歩けばちゃぷちゃぷと音がしそうなくらいにしっかり雨の恩恵を受けている。 自分の姿を客観的に捉えると、精密機械を所狭しと配置したこの研究室の中で どれだけ迷惑な存在になるのかくらい、鈍い薫にもすぐに想像がついた。 まして、この部屋の主は完璧主義者の権化のような湯川准教授なのだ。 「すみません、えと、なにか拭くもの…」 を、借りてもいいですかと続けようとした薫を遮って湯川が口にしたのは、 予想外の言葉だった。 「風邪をひくぞ」 「ええ、あの、風邪をひきそうなのでタオルとか………………………え?」 「だから、濡れたままでいると風邪をひくと言っているんだ」 繰り返し、湯川がその“信じられないこと”をはっきり伝えてきたので薫は思わず あんぐりと口を開けて、まじまじと彼の顔を見返した。 「…普通のことも、言えるんですね?」 「キミは喧嘩を売っているのか濡れた身体をどうにかしたいのかどっちだ」 「あ、すみません、どうにかしたいです」 「それなら着替えを出そう。タクシーを待つ間くらいの役には立つ筈だ」 (…わあ、本当にいつもより普通っぽくて優しい、湯川先生。どういう風の吹きまわし?) 「お借りします!」 内心、失礼と言えなくもない感想を抱きつつ。 我に返り、それでも驚愕を表情に残したままの薫は珍しく素直に答えた。 今までは「とにかく研究室へ向かう」という目的の下、一心に行動していた薫だが、 濡れたシャツやごわごわになったスーツ、びしょびしょになったパンプスなどを一度 意識してしまうと、気持ち悪さが先立ち、嫌悪感が頭から容易に離れてはくれない。 あれ、でも、 と半ば冷静さを欠いた頭で浮かんだ疑問を、薫は素直に口に出した。 「着替えなんて、持ってるんですか?先生」 「………まぁ、なくはない」 「はぁ」 いくらか躊躇を含んだ返答であったことに、それでも薫は気付かない。 濡れて不快感を増幅させるこの濡れた衣服をどうにか出来るなら、と急いた気持ちが、 湯川の申し出に賛成を唱えた。 「でも、先生のでサイズ合うかな…」 「気になるなら無理にとは言わない。別に僕としては、キミが風邪を引こうが警察の 捜査や勤務に支障が出ようが、関知するところではないからな」 「はいはい、贅沢言いません。お手数かけてすみませんね本当に!」 例によって理屈っぽい応酬が始まる前に、薫は自ら身を引き慇懃に礼を述べる。 (感情的になるのはいつものことなので、湯川の方も敢えて取り合うことはない) 若干呆れた表情が見え隠れするのは致し方ないとして、薫は大人しく彼の手から 着替えを受け取った。白っぽいシャツである。 研究室内は暖房が効いているので充分だろう。 「隣りの準備室で着替えるといい。 もう研究生らは帰っているから、誰かが入って来る心配はない」 「は、はい。……あの、湯川先生?」 目で応答した湯川に瞬間視線を合わせ、 それからすぐに目を逸らして薫はごくごく、囁く程度の声量で答えた。 「 ――――― ありがとうございます」 言い捨てに近い勢いで、薫は借りた着替えとタオルをしっかり抱え、準備室へ飛び込んだ。 後に残された湯川の目に焼きついたのは、やけに頬を赤く染めた内海薫の、 普段より大分女らしい恥じらいを見せた表情と、濡れた黒髪。 「意外な一面だな」 独り言を呟いて、湯川学は愛用のパソコンに向かって腰を下ろした。 ついでに、いつもこの位大人しければ申し分ないのだが、と続けた言葉は当然、 薫の耳に届くことはない。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |