昔の俺に似てる(非エロ)
橘啓輔×緋山美帆子


後悔していると告げられた時から二人の間に漂う微妙に気まずい雰囲気を払拭しようと
仕事が一段落したタイミングを見計らって三井は橘に切り出した。

「緋山の塞いだ表情を目にするよりも、この前あなたに言われた言葉が一番身に堪えた」
「…え?」

カルテをパラパラと確認していた橘が三井の言葉に顔を上げる。

「あなたが私に言ったのよ。『緋山が医者を辞めることになったら、
どう責任を取るんだ』って」

罪悪感と憤りが混ざり合ったような、微妙な表情で橘が三井を見返す。
そんな元夫にむかい、三井は静かに話しかけた。

「あなたは自分中で私を理想化していて、現実の私との違いを許せないのよ。
4年前も、そして今も。だから」

相手の目をまっすぐに見つめはっきりと言い切る。

「元には戻れない」

感情を読み取られないためにか、視線を反らした橘にむかって三井はさらにたたみかけた。

「結局、今度も逃げようとしているんじゃないの?」
「何から逃げてるって?」

心底意外だったのか、目を見開いた橘の言葉に三井は橘の視線を避け窓の外へ眺めた。

「『4年前、私を庇えなかったことを後悔しているから緋山を庇った。』

あなたはそう言ったけれど、昔の行為を贖うという理由だけで緋山が医者を
辞めるような事態にならないよう、出来る限り手を尽くしているわけではないんでしょう?」

「緋山は教え子の一人だ。庇う理由が君への贖罪だけでは無いのは当然だろう」
「『教え子の一人』?」

相手の言葉を鸚鵡返しにして三井は再び橘と視線を合わせる。

「同じ“教え子”である白石に対してと、緋山に対してでは
今回の件が起こる前からあなたの態度は全然違っていた」

そう言うと苦笑しつつ肩をすくめる。

「だてに何年も夫婦をしていたわけじゃないし、あなたの気持ちくらい
傍で見ていれば分かるわ」
「別に緋山とは」
「今の段階でどんな関係であろうと、それはどうでも良い」

まだ彼らの間に特別な感情が流れているわけでは無いのかも知れない。
それでも今、誰かがついていてやらないと、あの子は本当に再び立ち上がれなくなるだろう。
そして、かつて自分が生涯を共にしようと思った橘なら、
様々な経験を通じて強くなったと言い切る彼なら十分に緋山を救う力があると信じ、
その役目を彼に託そうと決意する。

「今、救いの手を差し伸べるべきなのが誰なのか分かっているんでしょう?
だったら今度こそ後悔しないで」

そこまで話すと真剣な表情を崩し、橘に向かって微笑む。

「私には、後悔しているって言ってくれた、その言葉だけで十分」

踵を返し部屋を出る間際、振り向いて小さく呟いた。

「強くなったのは、あなただけじゃない」

部屋に立ち尽くす橘を残し、三井は足早に病棟へと向かった。

彼が4年前に自分を助けられなかったその贖いに緋山を助けたいと思うのであれば、
自分と同じ過ちは踏ませまいと誓っていたのにその誓いを守れなかった、
その罪を償うためにも彼と今やり直す道は選べない。

お互い未熟だった自分達とは違い、今の橘と緋山であれば必要とするものを
与え合うことができるだろう。

回廊で足を止め、医局に立ち込める陰鬱な空気とは対照的な青い空を三井は見上げた。
緋山が今回の一件を乗り越えてくれるように。それだけを祈りながら。

『もし、俺が死んだら、どうする?』


「…は…?」
意味不明で、不可解で、目茶苦茶な質問を橘から投げかけられて、緋山はポカン…と口を開けた。


ここは橘が暮らしているマンション。
橘の勤務が終わった後、言われるがまま緋山は彼について行き、言われるがまま彼の自宅に入った。

普段の緋山だったら絶対にそんなことはしない。
上司とはいえ、好きでもない男の部屋に軽々しく入ったりなんかしない。

でも、今の彼女は違っていた。
今の緋山に思考回路や人間としての常識なんて存在しない。
人形と同じ様に、ただそこに存在し、かろうじて呼吸をして、かろうじて……

生きている。

「もし、俺が死んだら緋山、お前ならどうする?」

橘は、また意味不明な、さっきと同じ言葉を投げかける。

「…は…?」

緋山もバカの一つ覚えの様に、さっきと同じ返事しか返せない。
橘はイラついた様な足どりで緋山に近付くと、彼女の腕をガシッと掴んだ。
「痛っ…痛い、橘先生」
普段だったら絶対に睨み付けて、抗議して、抵抗するはずなのに、何でこんなに弱々しく
口元だけで、か弱い声で『痛い』という事実を口にするだけなんだ?

橘はそんな緋山にますますイラつく。
…いや、イラついているんじゃない。憎い。

何に?
彼女に?
それとも彼女をこんな状態にした患者に?
こんな運命を背負わなければいけない医者という職業そのものに?
いや、人間という存在に?
…それでも生きていかなければならないという事実に?

いや、一番憎いのは自分だ。
三井を救ってやれなかった自分自身だ。
そして、今、目の前にいる大切な存在を守ってやれない自分自身だ。

橘は力強く掴んだままの腕を自分の胸元に持っていき、そのまま緋山の掌を自分の心臓に押し付けた。

まるで意味が解らない。
橘が意図していることがわからなくて緋山は震えながら、その手を離そうとした。
でも、橘の力があまりにも強くて、緋山は橘の胸元…ちょうど人間の心臓が位置する場所から手が離せない。

橘先生、何が目的なの?
何で、こんなに乱暴なの?
私に何を伝えようとしてるの?
緋山は混乱した。

「緋山、俺の心臓は動いてるか?」

またしても理解不能な言葉に、緋山は三回目の、は…?という言葉を漏らした。

「緋山は、もし俺の、この心臓が止まったら、どういう対処をする?」

…やはり意味がわからない。

「もし…もしも俺が、脳死判定を受けたら…」

そこで初めて緋山はハッとして橘の顔を見る。

橘の顔は今にも泣きそうで、掠れた声を紡いでいる唇はカラカラに渇ききっていて
真剣で、必死で、懇願する様に見えた。

「もしも、俺が…翼君と同じように脳死判定を受けて…」

「やめて下さい!!」

緋山はヒステリーを起こした様に金切り声を上げた。
腕を、掌を、橘から振り払おうとしても、橘はガッシリと掴んで離さない。許してくれない。

「やめて!!やめて!!聞きたくない!」

いつの間にか緋山は大粒の涙をとめどなく流していた。

「じゃあ…もしも俺が、この間の患者の様にアナキラフィシーショックで…」

「やめて!!!!」

橘が最後まで言わない内に、緋山はより一層声を荒げて、渾身の力で橘を突き飛ばした。

そこで二人の残酷なやり取りは終わった。

静かな部屋に二人の荒い呼吸が響く。
橘は緋山に突き飛ばされ床に転がったまんま。
緋山は突っ立って自分自身の肩を抱きしめた格好のまんま。

二人とも言葉を発しようとしない。
ただ、ただ、二人の荒い呼吸が部屋に響く。

一体どれ程の時間、そうしていただろう。先に口を開いたのは緋山の方だった。

「私、患者、怖い。」

藍沢にも言った言葉。どうしようもなく押し寄せてくる。恐怖、混乱。

「…うん。」

橘は、ただ一言だけ、そう返事した。

「ただでさえ、みんなに遅れを取っていて。その上裁判なのに、謹慎なのに…」

緋山は頭を抱えて、その場に崩れ落ちた。

「それなのに私、ホッとしてるんです。もう患者を診なければ、私は人を殺さないで済む…。」

橘はようやく落ち着いたようで、優しくいつもの様に緋山に歩み寄る。

「君は、殺してなんてないさ。」
「殺したんです!!」

間髪入れずに緋山は橘を睨み付けた。

「俺はさ、お前が嫌いだった。実はフェローの中で一番嫌いだった。」
「え…?」

話題を反らす様に橘は緋山に話を続ける。

「君は、昔の俺によく似てる。俺はお前みたいな時代の自分が大っ嫌いだったから。」

「でも…」

「俺は見てたから。お前をずっと、見てたから。お前が本当はどういう人間なのか、どれだけ…」

そこまで言うと橘は緋山を抱きしめた。
さっきとは、まるで違う。硝子細工の繊細な作品に触れる様に、大切に、大切に包み込む。

「…こんなに温かいか…」

すぐ耳元で聞こえる掠れた声に驚いて緋山が振り向くと、橘は泣いていた。

「やめないでくれ…。」

うわごとの様に橘は呟く。

「お前は、お前の医師をやめないでくれ…。その生き方を、どうか、どうか…」

緋山は凍り付いた心が、ほんの少しだけ溶けていくのを感じた。

しばらく、そうやって二人で抱き合っていた。

でも、緋山からの反応が何もないことに心配になって、橘は彼女の表情を伺う。

緋山はもう、泣いていなかった。

ゾクリとした。

今まで見たこともないような優しく、温かく、慈愛に満ちた表情で橘を見ていたから。

その表情は少しなまめかしくも思えて、橘は慌てて顔を逸らす。
緋山は、そんな橘の頬にそっと…少しだけ手を添えると、一瞬だけ彼に顔を近付ける。

瞬間、橘は電気が走った様な感覚がした。


「橘先生、ありがとうございました。」

緋山は立ち上がると深々と頭を下げる。

「もう、大丈夫だと思います。…多分。私は医者を続けて行ける…かもしれません。」

緋山はさっきまでとは違い、少しだけいつもの彼女に戻りつつあった。

「私は橘先生について行きます。だから…辛いときは少しだけ、私達を助けて下さい。」

今度は橘の方がポカン…として緋山を見上げていた。

「失礼します。」

緋山はもう一度頭を下げて、その場を立ち去ろうとして足を止めた。

「橘先生…私も先生のこと温かいと思います。」

緋山はそれだけ言うと、今度こそ本当に玄関から立ち去った。

残された橘は、相変わらず床に座ったまま、そっと自分の唇に指で触れてみる。
さっき彼女に唇を重ねられた…と思ったのは勘違いだったのだろうか?

何だか自分なんかよりもずっと…緋山の方が強い人間なのかもしれない。

「守ってやれるかな…?なあ?」

橘は問い掛けても返事をしない、三井の写真に呟いた。






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