男心(非エロ)
橘啓輔×緋山美帆子


エレベーターに乗り込んできた人影が誰であるかに気付き、
緋山はひそかにため息を吐く。
そんな「少々ウンザリ」気分を知ってか知らずか、
いつものように軽い調子で声をかけてきたのは彼女の指導医で。

「今日はこれで上がり?だったら飲みに行かない?」

誤解が無いようにはっきりとした拒絶の意思を込めた視線を橘に向け、
緋山は答えた。

「行きません。この際はっきり言っておきますけど、
何度誘われても答えは同じですから」

そのままツンとそっぽを向いた緋山に気を悪くした様子も無く橘は話続ける。

「君の敬愛する三井先生に遠慮してるわけ?そんなこと気にする必要は全く無い…」
「そうじゃ無くて!」

キッと振り返ると相手の胸先に指を突きつけた。

「私達フェローの評価をするのは、橘先生、あなたです。
もしここで、私があなたの誘いにウカウカ乗ったりしたら、
評価に対してケチが付くのは目に見えています」

「俺がプライベートを仕事に影響させる事は有り得ないけど」
「分かってます。先生がそういう人だってことは」
「分かってるなら問題無いんじゃ…」
「先生自身の考えはどうでも良いんです。私は自分の評価が高いことを
『指導医に媚を売ったから』なんて悪評に晒す危険を冒すほど
浅はかでは無いってことをしっかり理解して頂きたいんです」
「…自分が高評価だって疑ってないところが、らしいよね…」

クックッと笑っていた橘は、エレベーターが開くと同時に歩き出した
緋山の腕を掴み、無理矢理引っ張り歩き出す。
抗議の言葉に耳を貸さず、空いていたカンファレンスルームへ押し込むと
後ろ手に扉を閉め、ガラス張りの窓にかかるブランドを下ろした。

「ちょっと横暴過ぎるんじゃ無いですか?!」
「誘いを断ってるの、俺だけじゃ無いんだろ?」

本気で憤った糾弾に疑問で返され、勢いを失った緋山に畳み掛けるように問いかける。

「何でも、フェローに来た直後は合コンだ何だで当直無い日は喜び勇んで
帰っていたらしいけど、今ではそんな気配すら感じさせないし?」

随分と昔の話を持ち出され、思わず唖然としていまう。

「どこからそんな情報を仕入れてくるんですか…」
「前にも仲の良い看護師多いって言わなかったっけ?
『最近では緋山先生が合コンに誘ってくれる事が無くなった』って
ボヤいてる子が多いって知らなかった?」

どうもかなりハイレベルの合コン設定していたみたいだしね〜との橘の言葉に緋山は頭を抱えた。

「今はこの研修期間を最高の成績で終える事に集中したいんです。
別に出会いを探すのなんて、それが終わってからでも構わないじゃ無いですか」
「真面目だな〜。そんな優等生な答え、白石が口にするならともかく、
君が言っても信じられないな」

相変わらずからかうような口調はそのまま、体格差を利用し
壁際に追い込むと顔の横に手をついて逃げ場を塞ぐ。

「それとも、最近は白石以上の“良い子の優等生”を目指しているのか?」

思いがけない言葉に黙り込んだ緋山から視線を反らし、橘は話を続ける。
先程までとは異なり皮肉を込めた声音で。

「この前の腹部大動脈瘤の患者、白石のフォローしただけでもお手柄だったけど、
白石本人にも『落ち込むな』とか励ましてたんだって?」

耳にした連中は緋山も大人になったと褒めていたようだがとの
皮肉めいた言葉にトゲを感じ、思わず反論する。

「…先生自身、気付かなくても仕方なかったってフォローしたそうじゃ無いですか」
「白石は指導医がこれ以上責任を追及する必要が無い程、反省していたからね。
でも、それとこれとは話が違う」

抗議をしようと口を開きけかた緋山を遮り、言い連ねた。

「同期は仲間である以前にライバルだ。ライバルは腕を競い合ってこそ華だ。
馴れ合っているだけで、良い関係を築けるとは俺は思わない」
「馴れ合ってるだけなんてこと」
「無いって言いきれるか?いつから白石を始めとしたフェロー達に対して
厳しく接する事ができなくなったんだ?それに、君は白石のように、
休みを返上してまで常に仕事一筋になるタイプでは無いと思うが」

一旦言葉を切り、強い口調で言い放つ。

「君はオン・オフをバランス良く楽しむ事を知っているタイプだ。
間違ってるか?」

壁に押し付けるように行く手を阻み、瞳の奥に隠した真相を覗き込むように
目線を合わせて来た橘の表情が予想以上に厳しくて、緋山は息を呑んだ。

「オフを楽しむ事を避けている理由が、本当に『優秀な成績でフェローを終える』ことだと
俺が信じるとでも思ってるのか?」
「今の時期に、他にどんな理由があるって言うんですか?」
「他のフェロー達には無いだろうな。でも、君だけは事情が違う」

顔を背けた緋山の顎を掴み、無理矢理視線を戻すと躊躇無く橘は口にした。

「…いつも首まで覆い隠すような服装しかしていないのは、手術の痕を引け目に感じている証拠だ」
「引け目になんて感じてません」
「本当は、手術の成功云々以前に、術後も一生手術の痕と付き合う事の心情も慮らず、
白石からバイパス手術しない事を臆病呼ばわりされて心底腹が立ったんじゃ無いか?」
「そんな事ありません」
「君が白石をはじめ、自分が病室に閉じ込められている間にフライト数を稼いだ
同期連中に柄にも無く親切に接しているのは、経験数では適わない
劣等感を悟らせないための姑息な手段だ」
「憶測で言いがかりをつけるのも、いい加減にしてください」
「君が目を向けるべき問題から逃げているだけだって事は分かっている」
「あなたに関係無いじゃないですか!」
「傷痕は気にならないと言ったな?本当に気にしていないって言うなら、
今この場で、俺の前で脱いでみろ」

挑発されている。誰もが気遣い、口にしない事を敢えて口にすることで、
自分の怒りを爆発させる事を狙っている事は容易に察しがついた。
悲鳴をあげそうになる感情を押し殺し、ここで煽りに乗ったら
自分の負けだ、と気合を入れなおして目前の男を睨みつける。

「病院内で服を脱いで先生の前に立ってるところを誰かに見られたりしたら、
それこそどんな噂になるか分からないじゃないですか!」
「それは俺の要求に応じないために都合の良い言い訳であって、
実際には人にその傷を見せるのが怖いだけだろ?」
「相手が先生だから断ってるんです。本当に好きな人にだったら、
全てを見せる事が怖いなんて思わない!」
「大切な人に対してだからこそ、全てを見せる事には何のハンデの無い人間ですら躊躇する」

言葉に詰まった緋山に対し、再び挑むような口調でたたみかける。

「俺は君にとっての“大切な人”では無い。リハビリだと思ってやってみろよ」
「できません」
「するんだ」
「絶対に嫌です」
「怖がっているだけのくせに」

我慢の限界を超え、対峙する男を至近距離から睨み付けた。

「怖いって認めれば、それでご満足ですか?」
「男性であるあなたに、私の気持ちが分かるとは思えない」

なんでこの人にこんな事を話しているんだろう。止めろと理性が待ったを
かけているのに関わらず、口から言葉がこぼれ出ることを抑えられない。

「お風呂に入っている時に、傷が目に入ると自分でもギョッとします。
それに嫌悪を感じない人なんて、ただの偽善者です。
でも、私は同情なんて欲しくない」

ロッカールームであえて傷痕が皆の目に触れないよう気をつけてしまう
自分の弱さに自己嫌悪に陥る。傷痕に目を向けないよう、視線を反らす
同僚達の親切心に対して気遣いは要らない、と喚きたくなる。

「ただでさえ同期に比べてブランクがあるのに、手術が成功したとは言え、
事故以前に比べると体力も落ちた。正直、仕事中に事故のフラッシュバックで
手が止まるんじゃ無いかと思う事もあります。
橘先生は、救命医としての道を、医者としての目標だった道を
諦めないといけないかも知れないと、不安に直面した事ってありますか?」

フェローとしてこの病院に足を踏み入れた時、自分の未来は前途洋々で
曇りひとつ無いと思っていた。容姿にも自信はあったし、
合コンという名目で飲みに繰り出しては「こんなに綺麗なのに医者だなんて、
神は二物を与えるんだね」などという歯の浮くようなセリフを言われては、
おべんちゃらとして受け流しつつも良い気になっていたのは確かだ。

私生活を楽しみつつ医者として最もスキルが必要とされる救命の現場で腕を磨き、
フェロー終了後に他の病院へ行く事になったとしても、
また別の科に進む事を決めたとしても、ドクターヘリとしての経験に
誇りを持ち、巣立つことができると信じていた。

なのに事故をきっかけに状況は一変してしまった。
救命医を続けていけるか自分自身の身体的な限界に怯え、
新しい恋に踏み出すにもこんなに大きな傷跡のある状態で
他の女性と同じ土俵に上がれるかとの不安も湧き上がる。
何もかもが手から零れ落ちていくような錯覚。

その錯覚に怯え、仕事でも、恋愛でも全てにおいて怖気付いている
自分が情けなく、それを察知されないために必死になって
強気な自分を演じて来たのに、配属して数ヶ月に満たない
この男に虚勢を見抜かれていたなんて。

気持ちを抑えて淡々と話しているはずなのに声が震える。
唇を噛み締め俯くと突然頬を撫でられた。
堪えきれずにこぼれた涙を拭われ、気付いた時には相手の胸にすがって
泣きじゃくっていた。

感情のままに泣きじゃくり、一気に肩の力が抜けた。何時間も
経ったように思えたが、壁に掛かる時計に何とか目を向けると、
どうもこの部屋に入ってから数十分も経っていないらしい。
だが、そろそろ部屋を出ないと、何のために部屋が使用中と
なっているか怪訝に思ったスタッフが見に来るだろう。

「こんな顔で出て行ったら誰に何を言われるか分からない」

泣きに泣いて嗄れた声で小さく呟くと、幼い子供に接するように黙って
頭を撫でていた橘が笑い声をあげる。

「そんな事に気が回るようになったのなら、もう大丈夫だな」

慌てて身体を離す緋山の様子にのんびり笑いながら橘が話かけた。

「事情が何であれ、ブランクがあるのは事実だから、
そのハンデはどうしようも無い事ではあるが…」

怪訝そうに見上げた緋山に対し、橘はニヤリと笑って見せる。

「正直、俺から見れば君達フェローのスキルはどんぐりの背比べだ」
「…藍沢も大差無いって言えます?」
「まぁ、あいつがちょっとばかりリードしてるのは認めるがな」

得手不得手があるのは当然だし、当人同士が気にするほどの差は
付いていない。だから自分が藤川をリードしていると思うのは
思い上がりだし、白石に追いつこうと焦るのも禁物だと釘を刺すと
再度くしゃりと頭を撫でた。

「君は他のフェローが経験した事の無い試練を乗り越えた。
それを今後、医者として、人として活かせるかは君の生き方次第だ」
「間違った道を選びそうになったら、気付いてフォローしてくれるって事ですか?」
「まさか。道を踏み外すのを楽しんで観察させてもらう」

やれやれとため息を吐いた緋山に人の悪そうな笑みを向け、
普段の軽い口調で話を続ける。

「まぁ君はフェロー期間が無事終わるまでは、どんなに頑張っても
付き合ってくれる事は無さそうだし、長期戦で行くから、よろしく」

結局相手の思うままに本音を吐かされるは、泣き顔を見られるはの
結果になった事に今更ながら悔しさが込み上げ、
精一杯自信を込めた笑みを浮かべ緋山は橘に誓ってみせた。

「フェローが無事終わった翌日には先生より若くてイケメンの
彼氏を手に入れてみせます」
「その意気!」

はっきり、きっぱり誘いを拒否しているのに、良く出来たとばかりに
褒め称える。どこまで本気なんだと呆れ顔の緋山に向かって橘は笑いかけた。

「口説くのを止める気はないから、チャンスは最大限活かすつもりだ。
今日みたいな気分になったら誰にも気付かれない泣き場所ぐらい、
いくらでも用意してやるから遠慮なく言って来い」

からかい口調の声に含まれた優しさに胸が痛む。扉を開き
出て行こうとする橘に向かって、緋山は思わず問いかけた。

「なんで、私に構うんですか?別に私が事故を乗り越えずに
自滅したところで、病院からの先生に対する評価には何ら影響しないはずなのに」

緋山の言葉に橘は足を止め、振り返ると一瞬躊躇するかのように
開きかけた口を閉ざしたが、思い直したようにニヤリと笑って答えを口にした。

「…気の強い女の子が自分の前だけで見せる弱さは男心をくすぐるって、
どっかで習わなかった?」


数日後。

橘の問いかけに藍沢が見るからに迷惑そうに返答している。
それを耳にしている看護師達の笑い声が辺りにさざめく。
どうも、急患で運び込まれた若い女性患者が例によって
藍沢に甘えようとした時の対応を橘がからかっているらしい。

「本当に、あの軽い性格は何とかならないものかしら」

苦笑しつつ嘆いた三井の言葉に、緋山は思わず返した。

「…でも、橘先生って自分の軽口で重くなりがちな
現場の雰囲気を和らげようと気を遣ってるカンジしますよね」

驚いたように顔をあげた三井に向かって、緋山は微笑んだ。

「過去に一度でも、三井先生が選んだだけの事あるな、って思います」
「ありがと」

晴れやかに笑う三井に緋山は思う。
橘にしろ、三井にしろ、医者としての経験以上に人としての深さが
自分には全然及ばない。
いつか、自分は新しく入ってきた後輩医師達に対して、
彼らに何が足りないか自ら気付かせるような、
そんな指導医になれるのだろうか。

その瞬間鳴った携帯のコールに三井がすばやく応える。
つい今しがたまでの穏やかな顔とは一変したプロの表情で。

「緋山、行くわよ」
「はい!」

走り出した三井の後を緋山は全力で追った。その二人の後姿を
橘が優しい表情で見送っていた事には気付かずに。






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