悪戯2
金田鉄男×堤芯子


――ここしばらく、あいつが変だ。

いつもの通りお行儀悪く机に腰掛け、片足を膝立てて頬杖をつきながら
堤芯子は胡乱げな眼差しで一人の男を見つめていた。
書類に目を落とし、眼鏡のフレームを押し上げて淡々と調査内容を読み上げている
『そーめんかぼちゃ』こと金田鉄男。
二人で調査のために地方へ出張したのはつい先週のこと。

まあ人には言えないあれやこれやを致してしまったのは不徳の至りだが、
酔っ払っていたし、年下の割にはなかなかよかったし、なにより久々だったし。
…決して縛られたから燃えたというわけでは、断じて無い、はず。

出張から戻った日、微妙にやつれた顔をした角松には
「勿論何も無かったんだろうな!?」とやたらな剣幕で詰め寄られたが、
いつもの通りはぐらかしている。

とにかくあれは大人の情事というやつで、
それ以上を追求する気も、「襲われちゃいましたー」なんて大っぴらにする気も
全く無かったのだ。

ーーなのに事が済んだ翌日から、金田は決して芯子と視線を合わせなくなってしまった。

ちゃんと職務は全うしているし、必要最低限の仕事上の会話もある。
周囲の人間と談笑している姿だって見られるのに、
芯子が近づこうとすると無言で身を翻す。逃げ回る。

「……くっだらない」

何を気にしてんのかねぇ。
視線の先には、まだ打ち合わせ中の金田の背中。
唇をへの字に曲げて、芯子はぼそりと声を漏らした。



――木枯らしの吹き荒ぶ、ある夜。
角松は朝から調査に単身出かけ、
工藤はとあるお方に呼び出されたとかなんとかで出掛けてしまい。
定時で帰宅した芯子が再びふらりと会計監査庁に顔を出すと、
予想通り一人で残業していた金田の姿がそこにはあった。
二係の辺りだけ明かりが灯ったオフィスに響くタイピングの音。
入り口随分と集中しているらしい。
しばらく黙って金田の後姿を見つめていた芯子は、そろりと気配を消して近づくと

「……ダーリン。なーに考えてん、の」

「の」の所で、すいっと首筋をなぞってやった。
首筋が弱かったらしい金田は、うひゃっとかうへっとか妙な声を上げて大仰に飛び上がる。

首を押さえて後ろを振り返り、金田は芯子の姿を見つけて顔色を変えた。
何故ここに、という顔だ。

「……帰ったはずだろ。わざわざ何しに来た」

さっと視線を逸らして立ち上がると、
金田は逃げるように薄暗い資料室へと足を向けた。
棚からバインダーを取り出してぱらぱらとページを捲る。
淡々としたそっけない態度は、芯子に出会った当初の頃のようだった。

「酷い言い様だねー、なにも獲って食おうってんじゃあるまいし」

扉にもたれかかり、あからさまに不満げな声を漏らして腕組みした芯子は
じっと鋭い視線を送った。
しばらく無視を決め込んでいた金田だが、
重たげな溜め息を落としてちらりと芯子の方を向きかけ…、結局また棚へと視線を

戻す。
――煮え切らない態度に溜め息が出そうなのはこっちだ。

「ごーかんしといて後悔してんだ?」
「っ、だからあれは…!」
「あれは?」

畳み掛けられて、金田はぐっと言葉に詰まった。
ずいっと近寄ってきた芯子の険しい表情に気圧されたように
バインダーを取り落とした金田の肩を押しやると、
芯子は金田のネクタイをぐいと引いて顔を近づけた。

「あれは襲われたとかじゃないし、後悔もしてない。なにがご不満?」

じっと下から見上げられ、思い悩んだような顔をした金田は
しばらくしてから視線を逸らしてぽつりと呟く。

「知らなかったから。……あんたが…その、角さんと…出来てたなんて」
「………………は?」

唐突に出てきた角松の名前に、今度は芯子が固まる番だった。
よりによって、何故今、その名前が出てくるのか。
一瞬、脳裏に浮かんだのはへらへら笑う男の顔。
だが自分の情けない過去を角松が軽々しくしゃべるはずは無い。
他人の前で二人の関係を臭わすような事も話していないのに。

「ななな、なんでくるくるパーマの名前が出てくるわけ?!
あたしとあいつは、全くもってそーゆー関係じゃないんだけど!」

若干焦った口調になるのは動揺が激しいからだ。
角松に対しての結婚詐欺が発覚すれば、クビ。
どころか刑務所に逆戻りかもしれない。仮釈放中の身なのだ。
――せっかく掴んだ就職先だってのに!
ぶんぶん首を振って否定する芯子に、金田は怪訝そうに眉を寄せる。

「だってあんた…呼んだだろ。一郎って。
…俺に抱かれるのが嫌だったから、すり替えてたんじゃないのか」
「――――……呼んだ、って……」
「考えれば、思い当たる節はあったんだ。二人が特別な関係だって。
だから…俺は」

呼んだ?
芯子にネクタイを掴まれたまま項垂れる金田を前に、今度こそ芯子は絶句した。
よもや自分が情事の真っ最中に角松の名前を口にしたなどとは。
堤芯子一生の不覚だ。
真っ最中に他の男の名前を呼ばれたら、
それは相当ショックだろうし冷めてしまうだろう。

――だーから思いっ切り避けられてたわけ、か。
さっさと誤魔化してしまわねば。こんなに悩んでんじゃ可哀想だ。

真相を知って逆に申し訳ない気分になった芯子は
哀れな男に抱いてしまった同情を誤魔化すように、あのねぇ、と言葉を続けようと

した。
だがそれを遮って、金田が苦い声を発する。

「……だけど、知らなかったじゃ済まされない。
俺が角松さんの女を抱いたなんて知ったら、…あの人はショックを受けるだろうと


「…………はい?」

普段の彼からは考えられないくらい弱々しいその言葉に、
頭をがんと殴られたような衝撃を受けてめまいがした。

つまり、だ。
金田は『芯子が』角松のものだったことにショックを受けたのではなく、
『角松が』ショックを受けてしまうことのほうを心配していたのだ。

――よりによって、この芯子様より、くるくるパーマのほうが上だってこと!?

俯いたまま震えていた芯子の唇から、くつくつと笑いが零れ落ち、
金田は怪訝な顔で芯子を見た。

「…あのねぇ、そーめんかぼちゃ。一郎なんて名前の男、世の中にどんだけいると

思ってんの」
「……は? だ、だってあんた、角さんと…」
「あーもー、角さんだか格さんだか知んないけどさ。あーんなくるっぱー、
こっちから願い下げだっつの。…あたしが呼んじゃったのは、他のイチロー。判っ

た?」

第一もう古っるーーい名前だし?と苦笑したまま肩を竦めて、
事も無げに言い放つ。
彼女らしいもっともな物言いに、「…そうなのか?」と呟き脱力する金田を見て
内心安堵した芯子は、彼のネクタイをぐいと引いて再び顔を近づけた。
まるで今にも口付けするかのように。

「て・つ・お・さん。…もうあたしが別の男を呼んだりしないでいいように、夢中

にさせてよ」

ね?と甘く囁いて、大きく目を見開いた彼の眼鏡に片手を掛ける。

――本当は自分が角松をどう思っているのかなんて、今はあまり考えたくも無い。
金田にも、出来れば忘れてもらいたい出来事だ。

遮るもののなくなった彼の素顔は、普段より少し若く見えた。
薄明かりに照らされた金田は無言で、じっと芯子を見つめている。
その表情に浮かぶのは微かな戸惑いと、確かな欲望。

「……自分で言ったんだから、逃げるなよ」

あまりにも近い距離にいたせいで、低い声で言い切った金田が
不意に抱き寄せて口付けてきても、芯子には逃げる時間がなかった。

「ん、っ……!」

合わさった唇で開かされ、口腔に入り込んだ熱い舌先が、芯子の舌を捕らえて舐め回す。
そういえばこの間はキスもしなかった。
濡れた音が小さく響く中、眼鏡を持ったままの片手は次第に力無く垂れ下がり、
角度を変えて幾度も唇が重ねられる。
目を閉じたままの芯子がはぁっと熱い息を零すと、
金田は頬から首筋へと口付けを落として、薄手のシャツの裾から中へと
手を潜り込ませてきた。
素肌に触れた指は少しひんやりとしていて、その冷たさに芯子は微かに肩を竦める。
シャツを脱がせることも無く、その中で男の手が蠢いている様はどこか卑猥だ。
やがて節の高い指先がカップの下から差し込まれ、
ブラを押し上げ胸元を露にしようとするに至って、
その性急な行動に芯子は焦りを覚えた。
誤魔化すのが目的で誘ったのは事実だが、まさかここでとは思わなかった。

「ちょちょちょ…っと、ストップ! 何考えてんの!」

慌てた声を上げて身をもがかせた芯子に、
鎖骨に歯を立てていた金田は「あぁ?」と少し掠れた声を上げた。

「俺の言葉を聞いてなかったのか。逃げるな」

熱っぽい息と共に、歯先が肌に食い込む。
興奮と欲情が交差する眼差しで上目遣いに見つめられ、芯子の身体にも火が点る。
――が、このまま流されるのはちょっと危険だと思うんだけど。

「誰か来たりするかもしれないようなトコで、できるわけないっしょ!」

なにせ自分は仮釈放中の身。
隠れて事に及ぶならまだしも、仕事場で致したとバレて問題になったら困る。
抑えた声で噛み付くと、金田はしばらく無言になった後、
身体を離して芯子の手から眼鏡を取り上げた。
そして彼女の手を掴むと、有無を言わさぬ勢いでコートとカバンを手にし、
灯りを消すとずかずかとオフィスを出て行こうとする。

「ちょっ、どこ行くわけ?」
「俺のマンション。だったらいいんだろ」

前を向いたまま間髪入れずの答えに、はぁ?と呆れた芯子だったが、
拾ったタクシーの奥の座席に押し込まれるに至っては、
今夜は年下男の暴走に付き合うしかないかと苦笑する他なかったのだった。


――走り去るタクシーを見送る、背の高い人影があったことを、
手を握り締められたままの芯子が気付くはずはなかった。






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