きっかけ(非エロ)
角松一郎×堤芯子


教育管理委員会の無駄の一つを潰して、これで何が変わるとは思えないがそれでも、何かのきっかけにはなる。
芯子は、スワロフスキーの散りばめられた電卓をポケットの中で握り締めると息を吐き出した。
一人、検査庁へ足を速める芯子を後ろから見る男達は、確実に1ヶ月と変わる自分を、感じている。
例えば、角松一郎も、だ。
騙された筈なのに、今だって、その屈辱は忘れていない筈、なのに。だから、堤芯子が錦に襲われようが関係などなかったのに。
工藤や金田、それから後ろを歩く年増園のキャバ嬢達より少しだけ足を速めれば、容易く芯子に近付ける。
角松はこちらを見ようともしない詐欺師の旋毛に目を落とし、それから芯子と同じく真正面を向いた。
芯子の手が、何度か自らの尻をぱんぱんと、まるで埃でも払うかのように叩いているのが、気になった。声をかけようとすれば、小さく、ったくあのエロ親父が、が聞こえる。エロ親父、で今頭に浮かぶのは、錦。思いつくのは昨日のお持ち帰り。

「なんかされたのか?」
「あ?」

声を掛けられた芯子は、正面を見据えたままで不機嫌そうにそれだけ返した。

「錦にだ」

そこまで言ってやれば、やはり芯子が触るのは己の臀部。実に忌々しげに、唇を尖らせる。

「あー、ケツ触られたね。あと、股関に手ェ突っ込まれかけたからキュウリつかませてやった」

余程嫌だったのだろう。その声には嫌悪しかない。
それにしても。

「あのキュウリ、やっぱり」

股関の一物代わりだったのか、と、角松は再び自分のそこに目を伏せた。

「いやー、御守りがわりに持っててよかった。一瞬ひやっとしたけど、まさかホントにキュウリで騙されてくれるとは、な」
「触られて、嫌だったのか」
「あったり前だ、ろ!誰があんな中年に尻触られて喜ぶかっちゅーの!」

のびのび君越しじゃなかったら投げてたな、と荒まいて吐き出す芯子は普段男まさりな格好や口調をしているものだから、角松は少し、ほんの少しだけ意外に思ってしまった。
そして、ほんの少しだけ、もやもやとした思いが胸に渦巻く。

「……悪かったな、その」
「ンぁ?」
「だから、すぐ、追いかけなくて」
「あー、……別に、逃げたし。つーか追い出されたし?」

角松が素直に悪かったと言えば、芯子は居心地が悪いのか?つっけんどんに言い返す。

「どうせキュウリ入れるなら、俺か工藤が入れば、」

そこまで言って、けれどその言葉は思い切り振り返った芯子によって遮られた。

「なーになーに、なんかあった?ンもぅなんかきもちわっるいんだけど!」

あ゛ーむずむずする!と身体を掻くようなジェスチャーをしながら叫ばれる。

「……いや」
「あ、もしかしてアレか。錦にケツ触られんのは嫌だったけど、俺ならどうなんだろう、とか思ってんのか」
「ぅンなわけねーだろ!」

殊勝な気持ちで身を案じるような言葉を掛けたのになんでそんなことを言われなければならないのか、と憤慨する角松は、自分が芯子のペースに引き込まれていることに気づかない。

芯子は内心ほっと息をついた。先のように他人に主導権を握られるのは、性に合わない。
特に、コイツには。
いつだって私が、心を乱してやる側だ。
こんな風に。

「……別に、やじゃないヨ?」

つつつ、と少し角松の近くに寄って、斜めに上目遣いで見上げると、相変わらずの単純馬鹿が息を呑むのが喉仏の動きでわかる。

「え」

極力小さな、小さな声で、アナタだけに聞こえるように言うね、とばかりに紡ぐ言の葉は、口八丁の詐欺師、最大にして唯一無二の武器。

「角松サンになら、さ、わ、ら、れ、て、も、やじゃナイ」

きゃ、なんて頬に手を添える仕草など、妹のみぞれが見たら瞠目するだろう。しかし妹は工藤君と金田っちをもう二人と囲んで次の遠足の算段に勤しんでいる。それも、かなり後方で。
公道ではあるが、芯子と角松は今完全に二人きりだ。

「……」

芯子は突然、角松の腕をガバリと引くと、横路に逸れる。いつかのように壁にトン、と突き飛ばすと、コンクリートは角松をその硬い身で受け止めた。
イッテェ、と漏らす角松に、笑う。

「のびのびとぉー……」
「なにすん、」
「ちゅー、のポーズ!」
「だっ……ぅええ……!?」

目を閉じ唇をツンと突き出した芯子に、角松がうろたえる。
据え膳かこれ据え膳か食わぬは男のなんとやらか!?いやしかし待て待て角松一郎思い出せ、この間だってそのまた前だって!

馬鹿である。

そのままの格好で、5、4、3、2、1、心で数えた芯子は、目を開け、離れた。ゼロ。

(ばーか)

「にゃーんちゃって、な」
「ああ……ま……た騙され……!」

コンクリートに頭をこすりつける角松の後ろ姿に、芯子が、舌を出した。
騙してないし。今回はただの、時間切れだっちゅーの。

あんな格好で待つ女を、長く待たせるア、ン、タ、が、悪い!そう毒づく瞳が角松にわかるわけもなく、だから芯子もなんにもなかったことにして、角松を横路に残したままで踵を返して大きな通りに歩き出した。

遅れていた後方組と合流すると「何してたの芯子姉ェ」とみぞれに言われて、けれどつい今し方なんにもなかったことにした芯子は、なーんにも、と答えてやる。

「芯子さん、今度は動物園とかどうですか?」
「どーぶつえん?」
「はい!」

元気に返事をするは、工藤優。どうやらコイツにも好かれているようだ。

(モテ期到来だね)

口角を上げた芯子は、どう控えめに見ても先ほど錦に啖呵を切った後よりも機嫌がいい。
その機嫌の良さのまま呟く声も、いつもよりもどことなく、すがすがしく晴れやかだった。

「いーかーないっちゅーの!」






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