守りたいもの
野立信次郎×大澤絵里子


慰安旅行の浮き足立った気配も落ち着き、絵里子たち対策室メンバーは、特に大きな事件を抱えることもなく、
通常のペースで仕事ができる、穏やかな日々を過ごしていた。
昼食後のひととき、屋上で缶コーヒーを飲みながら、絵里子と木元が女二人でヒソヒソと話しこんでいる。

「で?その後、片桐とは進展したの?」絵里子が、肘でチョイチョイと木元をつつく。
「・・・実はこの前みんなで飲みに行った帰り、同じタクシーで二人で帰れたんですけど・・・」
「うんうん、それで?!」
「酔っ払った勢いで、今度二人で飲みましょうよ〜って言っちゃったんです・・・」
「おおっ!言ったか!それでそれで?!」
「それがですね・・・誘った途端、片桐さん、めちゃくちゃ態度が硬くなって、
微動だにしなくなっちゃって・・・。しーんとなった後、『そ、そうだな』って一言だけ・・・」
「そ、そうなんだ・・・それで・・・?!」
「で、これは脈なしかなーってちょっと凹んでたら・・・突然あたしの手をぎゅーって握ってきたんですよ・・・!」
「えぇっ!それは脈アリアリじゃない!!で、で?!」
「で、こっちはすっごいドキドキして、もしや告白されちゃう?!とか、すっごいドキドキしてたら、片桐さん急に、
『木元、学生のときの制服は、セーラー服だったか?ブレザーか?』って・・・」
「・・・・・」「なんなんですかね?あれ。どういう意図・・・??」

「・・・あのさ、木元。片桐にとっては多分それ、すっごい大事なことなんだと思うよ」
「え、なんでですか?」
「いや、それはその、片桐のセクシャリティの根本を成す、深遠かつ重要なテーマというか・・・(ま、ただのヘンタイというか・・・)」
「・・・そうなんですかね・・・。ちなみにあたし、ブレザーだったんですけど、まだ制服捨てないで取ってあるんですけど、
・・・それ片桐さんの前で着たほうがいいんですかね?!」
「いや、それは、うーん、ま、実際にお付合いが始まったら、展開次第では・・・」
「えーっえーっえーっ!!お付合いだなんて、イヤーーーー!!」

木元が真っ赤になって絵里子の背中をバシバシ叩くので、絵里子はコーヒーを跳ね飛ばした。

そんなふうに女2人がじゃれあっていると、何やら開け放した扉の向こうから、物々しい気配が感じられた。
数人の悲鳴と、バタバタと屋上への階段を駆け上がってくる乱暴な足音。
絵里子と木元は咄嗟に身構えて振り返った。

だから本当は嫌なんだ。好きな女が危険な職場で働くなんて。
野立は緊張した面持ちで、長い廊下を走っていた。
同じ職場で働けるのは嬉しい。スタート時から一緒に苦労してきた仲だ。
いろんな時を、いろんな顔を見ながら共に過ごしてきたし、あいつがこの仕事をこよなく愛していることも、
類稀な才能をここで存分に発揮していることも十分承知している。
誰よりも俺が、あいつの個性をここで思い切り活かしてやりたいと尽力してきた。

それでも。たとえ、並みの男よりタフで強くて才能がある女でも。
誰が好き好んで、自分の大切な女を危険と隣り合わせの場所で働かせる?
野立は長年のジレンマに今さら腹を立てながら、屋上への階段を駆け上がった。
エレベーターを待つ時間が惜しい。

「野立さん、落ち着いてください」片桐に腕を掴まれた。
「そうや、野立さん、丸腰やないか。ここは俺らに任せたほうがええ」

拳銃を手に、岩井も同調する。
部下から見ても、自分は明らかに取り乱しているのだろうか。
野立は、それでも足を緩めない。

「犯人は一人です。突然わめき散らしながら突進してきて、大澤絵里子に会わせろってナイフを振り回して・・・」

木元が青い顔で訴える。

「すみません、あたしが一緒にいながら・・・」

そういえば、ここ最近、絵里子宛にストーカーらしき人物から妙な手紙が送られてきたり、
ネットの掲示板におかしな書き込みがあったり、兆候はあったのだ。
マスコミに登場することも多い女性キャリアゆえ、そういった事例は今までにも珍しいことではなかったし、
どうせいつものイタズラだろうと、高をくくっていた。
迂闊だったな。気づいていながら、野立も手を打たなかった。

「でも、どうやって潜り込んだんだろう?」

山村が息を切らしながら、尋ねる。

「目撃した婦人警官の話では、清掃員の作業着を着てたみたいです。
掃除するフリで入り込んだんですかね・・・」

花形が強張った表情で答えた。
他にも数人、制服姿の警官たちが後に続く。
丹波部長にも連絡が行っているはずで、まもなく応援部隊も駆けつけるだろう。

じっとりと嫌な汗をかきながら、野立たちは屋上に辿りついた。
大男に後ろから羽交い絞めにされ、喉もとにナイフを突きつけられた絵里子の姿を見たとき、
野立は背筋がヒュッと冷たくなるのを感じた。
絵里子の目が、矢のような速さで野立に向けられた。
一瞬、安堵の色がその目によぎる。
野立が思わず駆け寄りそうになるのを、後ろから片桐たちが引き止めるのと、
絵里子が「野立!ダメ!」と叫ぶのはほぼ同時だった。

男は絵里子の首に当てたナイフにぐっと力を込めながら、
「近寄ったら大澤絵里子を殺すぞ!」と叫んだ。
グローブのように大きな手が、絵里子の喉に食い込んでいき、絵里子は苦しそうに咳き込みながらも、
男を刺激しないようにじっと耐えている。

「離せ!バカなことはやめろ!」

こんな非常時に陳腐なセリフしか出てこない、非力な自分に野立は嫌気がさした。
拳銃を持っていないことを死ぬほど後悔した。
拳銃があれば、この男の額を一発で仕留めて、絵里子をすぐに救い出せるのに・・・。

「おまえが悪いんだ・・・。オレがあんなに何度も思いを伝えたのに、おまえが無視するから・・・!
もうおまえを許さない!おまえはオレと一緒に死ぬ運命なんだ!」

ストーカー男が自分に酔った様子で、絵里子の耳元で叫んでいる。
男は目の焦点が合っていないようにも見える。それがひどく不気味だった。
二人のすぐ後ろは屋上の手すりで、犯人の片脚は足元の段差の部分に乗り上げている。
いざとなったら、犯人は絵里子とともに飛び降りる覚悟に見えた。

野立の両脇で、片桐と岩井が銃を構えた。
だが、犯人は絵里子を盾にするように抱きかかえている。
発砲するのはかなり厳しい。
どうしたらいい、どうすれば・・・?
日頃の冷静さが失われ、野立の頭は真っ白になった。
落ち着け、必死に自分に言い聞かせる。

対策室のメンバーたちは、そんな野立の心理を読み取り、それぞれが目配せしながらフォロー体勢に入っていた。

「ボクたちが守らないと・・・!」山村の言葉に、花形と木元が大きく頷く。

「・・・いいわ、一緒に死にましょう」

不意に絵里子が苦しそうに、声を振り絞った。

「え?」犯人が動揺したように、絵里子の顔を見下ろす。

「一緒に、死んであげるって言ってるのよ・・・それが望みなんでしょう?」

ストーカー男は虚を衝かれた表情をしている。

「・・・何言ってるんだ?」
「いいわよ。私もなんだか人生イヤになっちゃったし、お付合いするわよ。

生きてたって馬鹿馬鹿しいもんね。ほら、さっさと飛び降りちゃいましょ」
絵里子は男の巨体を肩でぐっと押しやりながら、手すりの方へと体を向けようとしている。

「ば、バカ言うな・・・!信じないぞ・・・。おまえは、オレの気持ちを無視し続けた女だ」
「だから、あなたへの罪滅ぼしのために、一緒に死ぬって言ってるのよ。ほら、早く」

そう言いながら、絵里子は渾身の力で彼女を抱きかかえている巨体を揺さぶり、
野立たちに背を向ける体勢を取った。

男を道連れに、絵里子は手すりから身を乗り出そうとする。

「うわっ、バカ!・・・やめろ!」

男は慌てて絵里子から手を離し、飛びのいた。
その瞬間、野立が「行け!!」と叫び、駆けつけていた応援部隊の男たち数人が犯人に飛び掛り、その巨体を押さえつけた。

「身柄、確保!!」

その声が聞こえる前に、野立は駆け出していた。
手すりからよろめくように振り返った絵里子の体を抱きとめる。

「絵里子、大丈夫か?!」
「野立・・・」

絵里子は喉を押さえながら、野立の腕の中に力なく倒れ込んだ。
ざっと全身を目で確かめたが、スーツの袖が何箇所か切りつけられているものの、目立った外傷はないようだ。首からも出血などしていない。
それなのに、絵里子の体は小刻みに震えていた。

「ボス!大丈夫ですか!?ボス!」

対策室のメンバーたちが心配そうに走り寄ってくる。木元は今にも泣き出しそうだ。

「大丈夫・・・。どこも怪我してないから」

そう笑顔を返す絵里子に、メンバーたちはホッとして安堵の溜め息をつく。

「情けないわねー、あんな男に捕まっちゃうなんて。私も衰えたもんだわ」

いつもの調子でサバサバ言う絵里子に、部下たちの緊張も少しほぐれた。

野立だけが、腕の中の絵里子の異変に気づいていた。
いつもの強気の絵里子じゃない。
それを証拠に、野立の腕を掴む絵里子の手の震えは一向に収まる気配がなかった。

絵里子は自身の動揺を部下たちに悟られないように立ち上がろうとしたが、
どうやら膝に力が入らないらしい。
野立は、震えている絵里子の姿を隠すよう体の向きを変え、わざとおどけた口調で場の空気を変えた。

「よし!大丈夫だろうが念のため医者に診てもらえ。
特別にお姫様扱いでおぶってってやる。大サービスだぞ」

野立は絵里子を背中に背負うと、よっこらしょと立ち上がった。
いつもの絵里子なら、部下の前で野立に背負われるなど絶対に拒否するだろう。

「おまえ、太ったか?重いぞ。ただでさえデカいんだから」

軽口を叩きながら、エレベーターの方へ向かう。
絵里子も「うるさいわよ!」と調子を合わせているが、背中越しでも絵里子の震えが感じられる。
部下達はまだ心配そうな顔をしているものの、野立の
「おまえらはあっちを頼む」という言葉に従い、取り押さえられた犯人のほうへと走って行った。

集まった警官たちの間を縫って、エレベーターの前まで辿りついたとき、
野立の肩に顔を埋めた絵里子の消え入るような声が聞こえた。

「・・・怖かった・・・」
「・・・わかってる。もう大丈夫だ」

エレベーターを待ちながら、まるで自分に言い聞かせるように野立はそう言った。

・・・参った。俺のほうが動揺してる。

捕まったストーカーは、30歳の元アルバイトの男だった。
半年以上前、ある事件の捜査中に目撃証言の聞き込みでたまたま絵里子と短い会話を交わしていた。
そのときから一方的に絵里子に興味を抱き、警視庁宛てに手紙を送ってきたり、
ネットの掲示板にファンサイトを立ち上げたりしていた。(ひたすら彼一人で書き込んでいたようだが)
絵里子も気づいてはいたが、日々の忙しさと、良くある嫌がらせやイタズラの類だろうと思い、ついつい放置していた。

男が絵里子に突進していったとき、絵里子は木元を突き飛ばして逃がした。
護身術に長けた絵里子が躊躇するほど、男は屈強で、おまけにナイフを振りかざしていた。
下手に応戦して男を刺激するより、木元に警官達の応援を呼びに行かせるほうが得策だと思ったのだろう。

あんな巨体相手に、一人で立ち向かいやがって。
野立は頭では理解しながらも、絵里子の無謀さと肝の据わりっぷりに改めて溜め息をついた。
あいつはいつもそうだ。
自分から囮になると言い出したり、危険な現場へも率先して飛び込んで行く。
本当は、もうそんなことはやめてほしいのに。

「野立さん、ボス大丈夫ですかね」

対策室に入っていくと、花形が心配そうに駆け寄ってきた。

「病院では異常なしと言われたから、大丈夫だ。
本人は仕事に戻るってきかなかったけどな、今日は早退させた。
丹波部長からも、今日明日は絵里子に有休を取らせるよう指示があった。
おまえ達に負担がかかって申し訳ないが、今回は特例だ。頼むぞ」

一同は神妙に頷いている。

「本当に大丈夫でしょうか・・・。いくら危険には慣れてるボスでも、
今回はちょっと様子が変だったみたい・・・。あたしがもっとしっかりしてれば・・・」

木元は同じ女性同士、絵里子の表情に何か感じるところがあったのだろう。
気にするな、というように、片桐が木元の腕をポンと叩いている。

「とにかく。二度とこういうことがないよう、みんなも気を引き締めてくれ。
俺もセキュリティ面をもっと強化するよう考える」

そう告げて、野立は対策室を出た。
扉が閉まる寸前、山村と岩井の声が漏れ聞こえてきた。

「ボス、野立さんの顔見て泣きそうになってたね・・・」
「あのサムライ女がな。強がってても、やっぱり怖かったんやろなぁ。無理ないわ」

定時で上がった野立は、タクシーを飛ばしてマンションに帰った。

「絵里子」

玄関ドアを開けると同時に声を掛けるが、返事はない。
室内を見回すと、ベッドの上で薄いブランケットにくるまりながら絵里子が丸くなって眠っていた。
シャワーを浴びたらしく髪が少し濡れていて、ゆったりしたルームウェアを身につけている。

野立はそっと手を伸ばして絵里子の頬に触れてみたが、起きる気配はない。
首のあたりを覗き込んでみると、ナイフで押さえつけられた辺りが、うっすらと紅くなっている。
しばらく絵里子の顔を眺めていたが、野立は自分もシャワーを浴びることにした。
いつもより念入りに戸締りを確認したのは言うまでもない。

シャワーの後、Tシャツを着てタオルで髪を拭きながらキッチンに向かった。
冷蔵庫から缶ビールを取り出して一息に飲み干し、大きく溜め息をつく。

絵里子は起き出していた。
間接照明だけのリビングのソファで、体育座りをしながら珍しく爪を噛んでいる。
ぼんやりした表情でテレビを見ているが、実はその目には何も映っていないようだった。
野立は隣にそっと腰を下ろすと、絵里子の髪を撫でた。
絵里子が顔を上げて野立を見る。
助けを請うような瞳だった。
その目を見た途端、野立の中でさっきからくすぶっていた感情が決壊し、絵里子を抱きしめていた。

「無事でよかった。おまえが無事で、ほんとによかった・・・」

あのとき屋上で捕らわれた絵里子を見た瞬間、野立は今までに感じたことのない恐怖に襲われた。
過去、絵里子は任務上、何度も危険な目に遭ったことがあるし、野立がそれに立ち会ったことも少なくない。
内心、絵里子の身が心配でたまらず、本当は行かせたくないと葛藤もしたが、
立場上その感情を表に出すことは許されなかったし、どこかで割り切ってもいた。
男以上に男らしい表情で立ち向かう絵里子の緊張をほぐそうと、わざとおちゃらけて送り出したことも何度もある。

けれども、こうして絵里子を自分の恋人、パートナーとして手に入れた今、
そんな割り切りも建前もどこかに吹っ飛んでしまった。
命の危険に脅かされる絵里子の顔を見た瞬間、野立は激しく後悔していた。
なぜ、絵里子にこの仕事を続けさせている?
なぜこうなる前に守ってやれなかった?
野立が止めたところで、絵里子がこの仕事を辞めることなどありえないのは分かっている。
それでも、感情は正直だ。絵里子を失いたくない。失うことが何より怖い。
その感情しか、あのときの野立にはなかった。部下に引き止められるのも当然だ。

「私、自分が怖くなった」

絵里子は野立の胸に顔を埋めたまま、そう呟いた。

「今までだって、危険な目に逢ったことは数え切れない。
どんなときも逃げない、それが大澤絵里子だって、偉そうに胸張って生きてきた。
なのに、今日あの男に殺されるかもしれないと思ったとき・・・心底怖いと思った」

絵里子は一度、大きく息を吸った。次の言葉を口にするのに、途轍もない勇気がいるかのように。

「・・・死にたくないって、そればっかり思ってたの。
今までみたいに冷静にものを考えられなかった。
ここで死んだら、野立に二度と会えない、もう一緒にいられないって、
それしか頭に浮かばなくて・・・それが怖くて怖くて、腰が抜けそうだった」

絵里子は一気にそう言うと、野立のTシャツにポロッと涙を落とした。

「自分が、怖かった。そういう弱い自分を突きつけられて・・・
ただ助かりたい、野立、助けて・・・って、それしか考えられない自分の弱さが、怖かった」

涙声になっていく絵里子が愛おしくて、野立の声がかすれた。

「当たり前だ。それが普通だ、絵里子」
「強くなれたと思ってたのに・・・こんなことくらいで脅えたりして、私・・・」

絵里子の涙の染みが、野立のTシャツをどんどん湿らせていく。
野立は構わず、より一層絵里子を抱く手に力を込めた。

「俺もだ、絵里子。俺も今日、おまえが捕まってる姿見て、膝が震えたよ。
怖くてたまらなかった。こんなの初めてだ。
まるであそこで自分の人生終わっちまうんじゃないかと思うくらい、怖かった。
片桐たちに、冷静になれって叱られたくらいだ」

フッと野立が自嘲気味に笑うと、絵里子が濡れた瞳で見上げてくる。

野立は絵里子の涙を親指で拭うと、そのまま頬に掌を当てた。

「誰かを本気で好きになると、失うことが恐ろしくなる。
守りたいものができると、人間は自分の弱さを知るんだ」

絵里子の口がへの字に曲がる。涙がとめどなく溢れている。

「そんな弱い人間が、こんな仕事続けていいのかな・・・」

やっぱりそれで悩んでたんだな。そういうヤツだ、こいつは。
野立は優しく絵里子に微笑みかけた。

「人を愛すると強くなる、なんて言うけどな。
本当は、愛したぶんだけ、自分の弱さをイヤと言うほど知らされるんだ」

本音を言えば、今すぐ辞めさせたい。でも、おまえは決して辞めないだろう?
この仕事に、命をかけてる、それが大澤絵里子なんだから。

「そういう、人を愛する弱さを知ってる人間だからこそ、人の痛みが分かって、この仕事に活かせるんじゃないのか?」

絵里子が唇を噛んで、またポロポロと涙を零した。
考えてみたら、こいつがこんなに泣くの、久しぶりかもな。
しかも、今日は思いっきり『女の子』の顔してやがる。

野立は思わず、チュッと絵里子の唇に自分の唇を重ねた。
少しの間、潤んだ目で野立を見つめ返していた絵里子が、急に野立の首筋にしがみついてキスしてきた。
強く唇を押し付けたまま、刻印を残すようなキス。

絵里子が指先で涙を拭いながら、切れ切れに言った。

「野立、私、今日、また気づいちゃったよ。あんたがいないと、私、ムリ」

一瞬、野立は言葉に詰まる。
おい、待て。なんでおまえはこんなに俺をメロメロにさせるんだ、まったく。

「・・・そんなに俺が好きか。でもな、俺の想いの深さには敵わねーよ」

絵里子が涙目のまま、苦笑いする。
おまえを失ったら、俺は多分生きていけないな。
そう確信したんだ。今日、あの屋上で。

絵里子が野立の頬に両手を当てて、慈しむように唇を重ねてきた。
その、想いのこもった優しく甘いキスが思いがけず長引き、
こんなときなのに野立の下腹部がつい反応してしまう。
絵里子の柔らかく湿った舌が野立のそれと絡まりあって、2匹の魚のように戯れあう。
いつの間にか涙も止まったようだ。

「・・・したいのか?絵里子」

意思をもった熱っぽいキスに、野立が問いかけると、

「野立はしたくないの?」と絵里子が問い返してくる。
「したいさ。俺はいつだって」

でも、と後を続ける。

「今日の絵里子は、静かに眠りたいだろうと思ってたから」

俺は眠ってる絵里子を、一晩中でも抱きしめていようって思いながら、帰ってきたんだけどね。

「したい。野立としないと、眠れない」

絵里子が少し恥ずかしそうに野立の肩に額を押し当てた。

「体、痛まないか?」
「平気。でも・・・優しくして」

いつのまにか、絵里子は野立に甘えるのが上手くなった。
それが野立を喜ばせた。もっと、俺に甘えろ。俺にだけ、甘ったれてろ、絵里子。

絵里子の体を引き寄せ、いつもよりずっと優しいキスを繰り返しながら、
ルームウェアの裾を引っ張りあげて、脱がしに掛かる。
絵里子の脇腹のあたりが、一部分紫色に変色していた。
野立がそっと掌で触れると、「見た目ほど痛くないの」と絵里子が呟く。

「最初にもみあったとき、あの男の蹴りがここに入ったのよ。私も蹴り返したけど」
「・・・くそっ。やっぱり俺がアイツを張り倒してやるべきだった」

野立は痛々しく色の変った肌に唇を寄せると、痛みを和らげるようにそっとくちづけた。
髭がくすぐったいのか、絵里子が少し身をよじる。

野立はさっきから気になっていたことを、意を決して口にした。

「・・・おまえ、あの男に、その・・・触られたり、したのか・・・?」
「・・・しないわよ、バカ。そんなこと心配してたの?」

バカと言われようが、構うものか。野立は思わず安堵の息をついた。

「絵里子の体は俺のものだから」

珍しく真面目な口調でそう言うと、野立は自分の着ていたTシャツを勢いよく脱ぎ捨てた。

抱き合うたびに、肌が馴染んでいく。
野立はそれを実感する。おそらく絵里子もだろう。
なぜもっと早くこうなっていなかったのか、それが不思議に思えるほど、当たり前のように溶け合う体だった。

絵里子のブラのホックを外す瞬間を、野立はいつも密かに楽しみにしている。
控えめに揺れながら、野立の手の中で白いふくらみがまろやかに収まる瞬間が好きで。
意外なほど柔らかく少女のようにはじらうその胸を、丹念に時間をかけて愛してやるのが、たまらなく好きで。
固く尖った蕾を舐めたりつまんだりすると、普段は決して出さないようなせつない声を漏らす絵里子が、どうしようもなく好きで。
だから今夜もそうした。いつもよりもっと、絵里子を泣かせたい。

絵里子が自分から脚を広げて、腰を揺らしている。
野立の唇と舌が、絵里子の襞をいやらしく割り込み、とろけさせるようにうごめき、時々淫らに突つく。

「あっ・・・あ・・・」

感じすぎて、反射的に逃げようとする絵里子の両脚を、野立の腕ががっちりと捕らえて逃がさない。

「ダメ・・・それ・・・あぁっ」

内側の柔らかいところと、外側の紅く尖りだした小さな芽。
野立の唇と舌が行ったり来たりしながら、ねっとりと舐め尽くしていく。
あふれ出す透明な粘液が口元にからみつくと、滴るような音を立てて、野立はそれを味わった。
絵里子の痴態に、野立のモノも痛いくらいに固くそそり立つ。

絵里子の手を取り、固く勃ち上がった野立自身へと導くと、細い指先がいきなりキュッとそれを掴む。
野立が思わず低く息を漏らすと、絵里子が体勢を変えて野立の脚の間に顔を埋めた。
くわえた唇が上下にさすりながら動き、よく濡れた舌がらせんを描くように舐めまわす。
掌と指が野立の股間をまさぐるように柔らかく愛撫し、時折しぼるように指先で締め上げられる。
先端から透明な液がチロチロと流れ出て、絵里子がそれを掬うように舌で舐め取る顔を、野立は荒くなる呼吸の中で見つめた。
頬張っている絵里子の顔をそっと撫でると、なまめかしい瞳で見上げてくる。

絵里子の体をグイッと引き上げ、後ろから覆うように抱きしめる。
ストーカー男に羽交い絞めにされた瞬間を思い出したのか、反射的に絵里子が身を固くした。

「大丈夫だ。怖くないから」

野立は耳元でできるだけ優しく囁き、両手で絵里子の肌を丁寧に愛撫していく。
背後から乳房をしっとりと揉みしだきながら首筋に舌を這わせると、絵里子が吐息を漏らして、野立に体を預けてくる。
完全に身を任せた状態の絵里子の唇に舌を割り込ませ、唾液を転がしあった。
手の中で胸の蕾がめいっぱい固くなっているので、そっとしゃぶってやると、絵里子が野立の頭をぎゅっと抱きかかえてくる。
野立の口内で乳首が転がされると、絵里子が甘い悲鳴のような声を上げた。

そのまま腰を抱き寄せ、5本の指すべてを使って秘所をくまなくいじると、尻を浮かせるように絵里子が反応し、野立の手にとろとろと蜜がからみついてくる。

「気持ちいいか、絵里子」

絵里子の額の髪を掻きあげながら、その表情を見逃さないように野立は聞く。

「も・・・ダメ・・・勘弁して・・・」

のけぞるように体を突っ張らせる絵里子の両脚を抱え上げ、野立はためらいなく一気に挿入した。

「あっ・・・!」

絵里子が声を立てると同時に、きゅっと内側がしなる。
絵里子を守りたい気持ち、泣かせたい気持ち、誰にも触れさせたくない独占欲、自分だけを愛していてほしい渇望。
そんなあらゆる感情を背負いながら、野立は身も蓋もなく声を上げて腰を摺り寄せてくる絵里子を何度も突いた。

大きな波のうねりのように、野立のモノが絵里子の中で翻弄される。
そのうねりに抗うように、野立はひたすら絵里子を貫いた。
濡れながら包まれるその快感がピークに達しかけた。
野立が腰の動きに最後の力を加える。
絵里子が野立の肩に抱きついて、ググッと内側を収縮させながら声を絞り出した。

「・・・きてっ・・・!」

その直後、野立は絵里子の中に大量の液体を解き放った。

繋がったまま、ビクンビクンと身を震わせている絵里子の顔を野立は見つめ続けた。
こめかみに浮いた汗を舐め取ってやる。
そうしながら、自身も脱力していき、そのまま絵里子の上に倒れるように重なった。

汗でじんわりと濡れた体のまま、絵里子が野立の背中に両手を回してきた。
シーツがぐっしょりと湿っていて、汗と、互いの体液の交じり合った匂いがする。
どちらも動かないまま絡まるように抱き合って、まだ荒い呼吸が収まるのを待った。

「死なないでよかった」

絵里子が呟いた。

「あのとき、死なないで、ちゃんと野立のところに帰ってこれてよかった・・・」

絵里子が野立の肩先の汗を舐めた。そのまま唇をつけて、ちゅうっと音を立てて吸っている。

「本当は、おまえにはもう、危険な目に遭ってほしくないんだ」

野立は絵里子の横顔に顔を押し付けて、そう伝えた。
ずっと昔から、何度も言いかけてきた言葉。無駄なのは分かっていても。

「・・・知ってる。野立の思いは分かってるつもり」

絵里子はふっと笑って、野立にくちづけた。

「分かってなくて、この仕事をするのと、あんたの思いを分かっててするのじゃ、私にとっては意味が全然違うの。
だから、私は大丈夫。
絶対あんたを残して死んだりしない。あんたもそうでしょ。
こんなに愛してるでしょ、私たち」

「・・・ああ。そうだな。俺も分かってる」

分かってるさ、そう繰り返しながら、何度か唇を重ねる。
野立の心から、モヤモヤとした不安や焦燥感がなんとなく消えて行く気配がした。
いや、消えはしないだろう。一生かかっても。
それでも、何かその向こう側に一歩踏み出すきっかけを、今の絵里子の言葉がくれた気がした。
こうして、毎晩俺の腕の中に帰ってきてくれればそれでいい。
ここで絵里子が羽根を休めてくれれば。・・・なんてな。

野立はブランケットを肩の上まで引っ張りあげると、絵里子にぴったりくっついたまま目を閉じた。

休養の後、晴やかな顔で出勤した絵里子を、対策室メンバーが心配そうに出迎えた。

「みんな、休んじゃって迷惑かけたわね。
今回の件、私の力不足で大事になっちゃて、本当に申し訳なかった。
それから、本当にありがとう。みんながいてくれて、心強かった」
「ボス・・・!良かったです、ボスが元気に戻ってきてくれて」

花形が駆け寄ってくる。木元は目に涙を浮かべていた。
みんな、一様に安堵の表情を浮かべながら、絵里子を取り巻いて笑顔になる。

「ま、いくらタフ言うても、あんまり無理すんなっちゅうことやな」
「そうですよ、ボスだって一応女の子なんだし。いざと言うときはボクらに任せてくださいよぉ」
「おっさんじゃ、もっと傷口広げるわな」

いつもの部下たちの軽口さえ、今日は絵里子の心をなごませる。

自分のデスクに向き合い、PCを立ち上げている絵里子の元へ片桐がやってきた。

「ボス、野立さん、今日ぎっくり腰で休みだそうですね」
「えっ、あ、なんかそうみたいね。やぁね、アイツも年よね、やっぱり」
「・・・自分、昨日の夕方、野立さんがスポーツジムに入ってくの見たんですよ」
「は?ジム??」
「気になってつい後を追って、しばらく様子見てたんですけど・・・」
「う、うん・・・」
「そこのジム、ガラス張りだから見学者も自由に中を見れるんで・・・。
それで野立さん、筋トレ系のマシーンを片っ端から試してたみたいで・・・」
「筋トレ?!」

首の後ろをポリポリ掻きながら、片桐が続ける。

「で、やたら張り切ってるなーって思いながら見てたら、こう、立ち上がったときにグキッとひねったみたいで・・・」
「あんた、そこまで見てたの・・・」

それで野立ったら、昨夜は妙なへっぴり腰で青い顔して帰って来るなり、早々と寝てしまったのか。
なんでまた、ジムで筋トレなんて急に・・・。

「今回の事件がきっかけで、『絵里子を守るのは俺だ!』とか思って、体力づくりに目覚めたんですかねぇ・・・。
いい年して健気ですね、野立さんも」

いつの間にか片桐の横に立っていた木元が、意味ありげに笑いながら言った。
絵里子がパァッと赤くなるのを、二人はニヤニヤしながら見ている。

「な、何バカなこと言って・・・!いいから、早く仕事しなさい!」

絵里子がシッシッと二人を手で追い払うと、若い二人は目配せしながら席に戻って行った。
兄妹のようでもあり、意外とお似合いのカップルにも見えてくる部下たちの後姿を眺めながら、絵里子は椅子に腰を下ろした。

「体力づくりねぇ・・・」

絵里子はPCの陰に隠れ、こっそり携帯を取り出した。
携帯の画像フォルダーを開くと、そこには今朝撮ったばかりの、ソファに突っ伏している野立の写真があった。
スウェットパンツをお尻半分までズリ下げて、腰に大きな湿布が貼られた情けない姿。
絵里子が湿布をピシャッと貼ってやると、
「いてぇよ。優しくチューでもしてくれよぉ」と泣きごとを言ってたっけ。

・・・今夜はがんばって、野立の好きな献立にしてやるか。
ちょっと新妻みたいな気分になっている自分に気づいて、絵里子は思わず照れ笑いを浮かべた。






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