崩れた三角形
野立信次郎×大澤絵里子


「森岡は、いつの間にか私たちとは全然違う場所に行っちゃってたんだね・・」

ソファに深く埋もれながら、何気なく呟いた。
隣で、ネクタイを外したワイシャツ姿の野立がグラスを片手に

「そうだな」

とポツリと答える。

「長い付き合いの3人組だったのにな。いつのまにか、アイツだけ違う方向見てやがった」

森岡が逮捕されてしばらく、野立とはあまりその話題に触れることはなかった。仕事場では憎まれ口を叩きつつ協力しあい、仕事が終わったあとは馴染みのバーで飲みながら冗談を交わしあう。そんな当たり前の日々を重ねていた。
今夜、いつものようにバーに向かう途中で不意に雨が降り出した。
雨の勢いは強くて、二人のスーツをあっという間に濡らしていく。濡れながら店に駆け込むより、タクシーで絵里子のマンションに向かう方を選んだのは、どうしてだろう。
どちらから言い出したのかもはっきり覚えてないけれど、今こうして絵里子の部屋のソファで、二人並んでちょっとだらしなく座りながらグラスを傾けている。
不思議なようでいて、ごく自然な成り行きにも思えた。

「私はさ、私と野立とピーピーの3人は、昔っから子供みたいにバカ言い合って、なんていうのかなぁ、漫才トリオみたいな正三角形だと思ってたんだよね。
でもさ、気づいちゃった。正三角形なんかじゃなかったんだなって。いつからか、私とあんたの二人を遠くから眺めて、ピーピーは少しずつ距離を置くようになった。
三角は三角でも、いびつな三角形だったんだよね、もう随分前から」

野立は黙ったままだ。グラスを長い指でもてあそびながら、ぼんやりと絵里子の顔を見つめている。いつもの慣れた構図。
なのに、なぜか今はその視線がこそばゆかった。

「ピーピーがああいうことになって、私たち、本当に2人になっちゃったね」

そう言ってから、絵里子は慌てて付け加えた。

「いや、別に変な意味じゃなくてさ」

「ピーピーは、たぶん気づいてたんだろ。俺とおまえの間には入っていけないって。今回のことは、アイツの思想とか信念だけじゃなくて、アイツなりの俺たちとの決別なんだろうな。」

野立はそう言うと、昔を思い出すような、ちょっと淋しそうな顔をした。
そんな野立の横顔を見つめていると、野立は不意にグラスをテーブルに置いて、冷たくなった指先で絵里子の鼻をキュッとつまんだ。

「結局、俺とおまえ二人が残るってことだな」
「残るって何よ、なーんか失礼な言い草ね!」

言い返したものの、間近にある野立の瞳に射抜かれて、絵里子は自分でもうろたえるほどドギマギした。

本当はずっと以前から心の奥底でうっすら気づいていた。
自分と野立は一心同体のペアであり、自分がこうしてお堅い組織の中で女だてらに対策室を率いていられるのも、いつも自分の背中を見守る野立の眼差しがあったから。
わざと本音を隠し、おちゃらけてバカげたことばかり言ってるこの男が、実は誰よりも自分を守ってくれていることを、絵里子は肌で感じ取っていた。
そして、今回の森岡の事件をきっかけに、自分と野立は本当に二人でひとつのペアなのだと、より実感していた。
けれど、そのことに気づけば気づくほど、自分の中に顔を出す女の部分に蓋をしたくなって、わざとはぐらかしていた。

「分かってるだろ。俺とおまえの二人なんだよ。今までも、これからも。どうしようもねぇんだよ。そうなっちまうんだから」
「・・・なーに言ってんのよ、野立。意味がわからな・・」

言い終わらないうちに、野立に後頭部をグッと引き寄せられた。
バランスを崩しそうになった瞬間、野立に唇をふさがれていた。
頭の中がショートしそうになった。わずかに残っている理性で、懸命に野立の胸を拳で叩いて抵抗する。
が、柔らかく温かな唇が絵里子を飲み込んでしまいそうで、徐々に体から力が抜けていった。

不意に唇を離して野立が絵里子の顔をイタズラっぽく覗き込む。

「何だよ。怒んないのか」
「・・・怒りたいけど怒れない」

放心した絵里子は、なぜだか子供のように泣きそうな気持ちになった。今まで背を向けて突っ張ってきた、自分の中の誰にも言えなかった思い。
それが今、決壊したようにあふれだそうとしている。
唯一自分の弱さをさらけ出せる相手が、いま目の前にいるこの男なのだと、体の芯から自覚して、なんだか涙が出そうになった。

「気づいてたか?俺がどういう気持ちでおまえを見てきたか」

野立の親指が、絵里子の頬をゆっくりと撫でる。

「俺はずっと自分の気持ちを隠してきた。それが、俺たちにとって一番いいと思ってたからな。
でも、森岡がああなって、三角形が崩れたなら、もう俺は自分の気持ちを隠すのはやめる。おまえには俺が必要だ。
おまえを守ってやれるのは俺だけだ。分かってるだろ?絵里子」

息がかかるほど近く、野立が絵里子を見つめている。
ああ、いつもこんな目で、この男は・・・。絵里子はとうとう観念した。

「分かってるよ。分かってたよ、たぶん、ずっと前から。バカだよね、私」

絵里子は絞り出すようにそれだけ言うと、今度は自分からギュッと野立の体にしがみついた。
一瞬、野立がハッとしたように体をこわばらせ、それから何かのスイッチが入ったように、絵里子を力強く抱きしめた。
シャツ越しに熱い体温が伝わってくる。絵里子は自分の鼓動が野立に伝わってしまいそうで、奇妙な恥ずかしさを覚えた。

「分かってるなら、ちゃんと確かめよう、な、絵里子」

野立の低い声が耳をくすぐり、

「ん・・・」

と返事をするや否や、また唇が重ねられた。
胸の奥と、下腹部の奥が、きゅうっと締め付けられるような感覚。
ほんのすこし絵里子が唇を開くと、その隙間から野立の濡れた舌が入り込んでくる。
生き物と生き物がからみあうような、深くて柔らかく、どこまでも甘い、でも激しいキスに、絵里子は我を忘れて野立にしがみついた。
こんなに長い年月一緒にいて、これが初めてのキスだなんて信じられない。
気付かないふりをしてきたのに、本当は私たち、こんなにもお互いを求めていたなんて・・・。

糸を引くような長いキスのあと、抱き合った体勢のまま、野立と絵里子は互いの瞳を覗き込んだ。照れくささは、いつのまにか消えていた。

「やっと素直になったな」

そう囁く野立の目は、吸い込まれそうに深くて、愛おしげに絵里子に注がれる。

「・・・あんたもね」

絵里子はそう言い返して、野立の鼻先を指でつまんだ。
なんだか嬉しくて、笑いがこみ上げてくる。

「よし、今まで待たされたぶん、目一杯思い知らせてやる」

野立はニヤリと笑うと、絵里子の細い腰を一層強く抱きしめた。
絵里子は思わず「バーカ」と言いながら、野立の首に顔を埋めた。
ああ、この匂い。私はこの匂いがたまらなく好きだ。

ふと見上げた時計の針は、午前0時。明日は二人とも非番。時間ならいくらでもある。
そう思って絵里子がまた笑みをもらすと、野立が「ん?どうした?もっとしてほしいか?」と低い声で囁いた。

「して。いっぱい」

そう絵里子が答えながら野立の髭をつまむと、野立が

「絵里子は可愛いな。知らなかったろ。俺がおまえを可愛いと思ってたなんて」

と微笑んだ。
そして、それを合図に、野立の唇は獰猛に、絵里子の肌へと降りていった。ひとつひとつ、長い年月を確かめるように。






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