もう少しだけ
野立信次郎×大澤絵里子


「待ってる」

空港の、搭乗ゲートのこちら側と向こう側で、
怪訝そうな瞳を向けたあたしに、そうあの男は言い放った。
ついでに、照れ隠しなのか、悪態も一つ吐いた。

「俺一人ぐらい待ってるヤツが居ないと寂しすぎるだろ?」

振られた女には仕事しかない、なんて安っぽいドラマの様だしな。
とは言わなかったものの、男の表情はそう物語ってた様に見えた。
その表情を読み取るのはなんだか酷く無粋な気もして、上等じゃない、と一言返した。
握り締めた携帯から流れる髭を奇妙に歪ませて笑う男の声に、
酷く心が落ち着いたのを、覚えている。

あたし達は多分、これで十分なんだ。

そう思っていたのに───。

アメリカから帰って来たあたしに、
あの男は相変わらずのひげ面を軽く歪ませて、よう、お帰り。と軽く笑った。
相変わらずのその様子に、あたしも鼻を一つ鳴らして、ただいま。って言葉を返した。
酷くぶっきらぼうな挨拶。
昇進を果たした元バディは、相変わらず軽薄で、
どこの風船より軽くてそしてどこの誰よりも自分を理解してくれていた。

が、ここに来て今回の見合い話だ。
何処まであたしを昇進の手駒にしたいのか、と憤りもしたけれど、
元々こういう男なのは分かっていた筈だった。
諦めにも似た心境で見合いを受けて、話が纏まりそうになるとちょっかいを出して来る。
未だ尻切れトンボの自分より先を越されるのがイヤだって事かよ、なんて心の中で毒づいてみた所で、
あたしの中で広がったもやもやとした黒い霧は晴れる事は無かったワケで。

カマを掛けたつもりじゃなかった。
いい加減目の前に最高に良い女──自分で言うのも苦笑してしまうけれど──が居るのだから、
と言葉遊びの延長だった筈なのに。

真剣な瞳で見つめ返されて、その唇から流れ出た言葉に心臓を掴まれた。
ああ、やっぱり、あたしはヤツのからかいの対象であり、元バディであり、悪友であり、同僚であり、
出世の為の手駒の一つで、女としての価値は無い───。

女のケツを追っかけた元相棒と店の支払いを放置して、
タクシーで帰る道すがら、酷く自己嫌悪に陥って、一つため息を吐いた。
あまりに盛大だったため息に、運転手がチラリとこちらを一瞬だけバックミラー越しに視線を投げる。
その視線から瞳を逸らして、流れる街角の風景を見やりながら、先ほどの会話を思い返していた。

行って来る。って何よ。
戻って来るのが前提の言葉遊びに、我ながら無粋な捨て台詞を吐いてしまった。
戻って来るな。
戻って来るのが分かりきった古女房でもあるまいし。
じゃあ、あの時自分は何と返せばよかったのだろうか。
頑張ってね?いってらっしゃい?

──待ってる。

不意に蘇った、携帯越しの男の声に、一つ舌打ち。
運転手の肩が小さく揺れた気がしたけど、気にしない。

部屋に戻って一息付いて、軽くシャワーを浴びて飲み直し。
乾き物とビールをテーブルに広げた所に、鳴り響いたインターフォン。
最初は一度だけ遠慮がちに、そう聞こえたのは気のせいかも知れないけれど。
数秒考えを巡らせる後、鳴り響いたのはインターフォンを連打する音。
終電も過ぎた深夜に簡素とは言えオートロックをすり抜け、あたしのマンションの自宅前まで来て、
無遠慮にインターフォンを連打する馬鹿は一人しか知らない。

っていうかそんな男一人でも知っているのがあたしの不幸の始まりか?

「──警察呼ぶわよ」

相手を確認もせずにドアを開ければ、口を尖らせた男が一人。

「警察手帳見せてやろーか、飲み逃げ野郎」
「アンタの驕りつったじゃないのよ」

何処かコンビニで買って来たのだろうか、ビニール袋を片手にぶら下げた男は、
不満げに言いつつも勝手知ったる様子で、ずかずかと部屋に上がりこんで来た。

「美女に手酷く振られた男に飲み代押し付けてさっさと帰るなんて酷いと思わないのか?」
「思うワケないでしょ、知るかそんなの」

睨み付けるあたしを他所に、上着を脱いでさっさと酒盛りの用意をし始めた男に、更に軽い殺意を覚える。

「なんだよ、相変わらずシケたツマミしか用意してねぇな、
こんな事もあろうかと俺様が直々に買って来てやって正解だったぜ」
「っていうか本当に飲みに来たの?帰りなさいよアンタ」

相変わらず言い回しが絶妙に上から目線で余計に腹が立つ。

「見合いに振られて落ち込んでんじゃないかと思って、
心優しい俺がワザワザこうして足を運んでやったってのに、何だよ、俺に当たるなよ」
「その物騒な見合い話持って来たのは野立、アンタでしょーが!」

べし、と一つ、形の良い後頭部を叩いてソファに腰を下ろした。
テーブルの前に座り込んだ男がイテェ、と情けない声を上げる。
ビール瓶が無かった事に感謝しなさいよ、なんて心の中で呟いた。
自室で男を殴り倒した、なんて本当に笑えない。

二本目のビールを開けた所で、髭面をわずかに歪めて野立がじっとあたしを見つめた。
いつに無く真剣な表情に、ふとさっきの言葉が蘇って、視線をグラスへと落としてしまう。

「なあに、あたしの美しい顔に何か付いてる?」
「ああ、目と鼻と口………じゃなくって、なんで俺お前とこうして飲んでんだろうなぁ、と」

………アンタが押しかけて来たからでしょうが。

「本当にねぇ、マトモな男に久しぶりに出会ったと思ったら変質者だったし、
あたしの男運の無さはアンタの女運の無さに通じるモノがあるわよねぇ」
「え、俺女運無いの?」
「あるの?お互い四十にもなって、深夜に酒盛りしてる時点であるとは思えないけど?」

ツマミをいじり倒しながら、きょとんと瞳をこちらに向けた男に、呆れた視線を向けた。
柿ピー粉砕されてるけど、ほっとくか。

「……ねぇのかな、いや、うん……無いのか?……」

自問自答する様に、男の節くれだった指先が今度はピーナッツを破壊しに掛かる。

「……そう改めて問われると。……でもさっきもいっつも野立会だとか張り切って仕切ってるけど、
上手く行った話聞いた事ないわよ?」

「そーなんだよなぁ、なぁ、どうしてだと思う?
こんなに素敵な俺様の魅力に気付かないなんて最近の子は観る目が無いっていうか、なぁ?」

……同意を求めるな、あたしに。
寧ろ観る目があるから、ほいほい乗ってかないんじゃないかと、心の端で思ったけれども。

「どーしてだろうなぁ、気付けば絵里子しかいないんだよ」
「はいぃ?」

しかいない。ってどういう事よ。

「いや、違うな、振り返れば奴がいる、じゃない、あれだ、気付けばオマエの顔が浮かんで……、
とも違うな、どんな女目の前にしたって、気が付けばオマエと比べちまってるんだよなぁ……」
「………何?酔っ払ったの?野立?生きてる?」

ソファに凭れ掛かったままあたしを見上げて来る男の目の前で片手を振った。
これしきの酒で酔う男じゃない筈だけども、何か変なモノでも飲んだのだろうか。
そこらの小娘とあたしを比べる時点で間違ってる……、ってそうじゃなくって。
顔が火照りそうになったあたしを、じ、と見つめながら、
目の前の男は眼前で振られた手を鬱陶しそうに片手で捕らえた。

「……やっぱり、俺にはオマエしか居ないのかもな」

軽く抑えたあたしの手の甲に、髭がするりと寄って、一つキスが落とされる。
やだ、何このシチュエーション。
さっきの様にあたしをからかおうったってそうは……。

「ちょっと、何してんのよセクハラ親父。いい加減にしないと本当に殴るわよ」
「さっき殴ったじゃねぇか。人が真剣に口説いてんのに、セクハラ親父で纏めるなよ」

二の句が告げないあたしに、野立がずい、とソファに登り間を詰めて来た。
アルコールの匂いのする吐息が鼻先を掠める。
近い、近いって!

「く、口説くって、ちょっと、野立、アンタ本当に酔って…」
「酔っ払うかよ、こんな程度で」

ですよねー……。

「待ってるって言ったものの、俺もオマエも大して変わってねぇしさ、
元バディの位置でもいいかなんて思ったけど、
オマエに見合い話持ってってオマエが少しでも落ち着けば顔チラつかねぇかとも思ったけど、
やっぱりどうしたって浮かんで来るのはオマエの顔ばっかりなんだよなぁ。なぁ?責任取れよ」
「ちょっとごめん、話がまったく見えないんだけど」

開いた片手で野立の肩口を押し返す。が悲しいかな、びくともしない。
その間にもソファの端に追い詰められたあたしの間近にどんどん端正な顔が近づいて来る。

「っていうか、アンタさっきから聞いてりゃ、勝手な話ばっかり……」
「もう、皆まで言わせるなよ、察しろよ。オマエが好きだって言ってんだよ、
さっきもバーで言ったじゃないか、忘れたのか?ごちゃごちゃうるさいぞ、オマエ」

うるさいって随分な言い草じゃない、って……、え?

「ちょ、え、嘘?今何って」
「ああ、もうちょっと黙れ」

頬に触れる髭の感触がくすぐったくて目を閉じた。
そして少しカサついた唇が触れるのが分かる。
啄ばむ様に二度触れた後、上唇を噛む様に吸い上げられて、
息苦しさに少しだけ開いた唇の間から饒舌な舌が易々と進入してくる。
あまりの展開に眩暈さえ覚えて男を押し返そうとしていた片手がだらりと下がった。
じんじんと疼き出す胸の奥から、忘れかけていた感情が眼を覚ます。
抵抗を忘れたあたしの動きに、気を良くしたのか意外に器用な男の指先がゆっくりと撫でる様に、
背中を撫でてそのまま尻へと向かい、脇から通って胸まで手を寄せる。

「……や…ちょっ……の、……野…立……」

苦し紛れに吐き出した言葉に、ちゅ、と一度音を立てて下唇を吸ってから、
野立が不満そうに顔を離した。

「……何だよ、まだ何か文句があるのかよ」
「…っ…当たり前じゃないのよ!」

息を整えて二の句を告ごうとするあたしの乱れた髪を片手で梳しながら、
んー?と笑顔を見せる男の余裕にどうしようもなく敗北感を覚える。

「……い…きなり、そんな事言われりゃ誰だって、……ま、
またあたしをからかってんじゃないでしょうね」
「信用ねーな、ここまでしといて冗談でした、なんて引っ込みつかねぇだろうが」

いや、確かにそうだなんだけど、先ほどからの野立の言葉が頭の中で渦巻いて、考えが纏まらない。
肩口背中と腰をゆっくりと撫で回す男の指先が、気持ちいいやらくすぐったいやら、
考える事を放棄してしまいそうで、一つ頭を振る。

「アンタの何処探したら信用なんて言葉が出て来るのよ!」
「つくづく失礼なヤツだな。そーか、そんなに信用して貰えてないか、
これはもう男野立、絵里りんに信用してもらえるまで頑張るしかねーな」
「え、えりりんって。ちょ、わ!」

髭が歪んでいつもの不敵な笑みが男の顔面を彩った。
ぐらり、視界が揺れたかと思えば、軽々とあたしの体は野立に抱きかかえられていた。
抗議の声を上げる間もなく、ぼふん、と放り出された真っ白なシーツの上。
ネクタイを外しながら覆いかぶさってくる男を蹴り上げてやろうかと睨み付けて、
その瞳の強さに言葉を失った。
真っ直ぐに逸らされる事なく向けられる瞳。

ああ、この瞳、ずっとあたしを見つめて来た瞳だ。

アメリカに向かう搭乗ゲートのガラス越しに見えた自分を見据えた瞳だ。
唇ににほんの少しの言葉遊びを織り交ぜて居たって、
あたしを見据えるこの瞳だけは、決して揺らがなかった。
開きかけた言葉を塞ぐ様に唇が降り注ぐ。

ケダモノに似た口づけに、頭の芯がぐらぐらと揺れる。
肩に置いた手で押し戻そうとしたって、もう何の力も入らない。

「……絵里子」

掠れた男の声に、手放しそうになる意識が繋ぎ止められる。

「………ほっ……んとーに自己中ね、アンタ」
「……嫌いじゃないだろ?そういう男」

互いの唾液でうっすらと光った髭を揺らして野立が笑う。
それすら扇情的に思えて、悪態をついてみるけれど、何の効果も無いのも分かってる。

「……大嫌いよ」
「ウソツキめ」

のど奥で笑った男の頭に両手を伸ばして、精一杯強がって笑ってみるけれど、
きっと情けない顔をしているんじゃないかと思う。

「……ウソツキな唇は塞いでしまうに限るな」

埋め尽くす光に眩しくて目を覚ます。
カーテンを閉め忘れたままに眠ってしまった事に少しだけ苛立ちを覚えて、
まだ少しだけ肌寒さを感じる朝の気配に少しだけ体を捩る。
隣から聞こえる微かな寝息に身を寄せて、深呼吸を一つ。
嗅ぎ慣れたオードトワレの匂い。
枕代わりにあたしの首筋に当たる見た目よりがっしりとした筋肉。
額に微かに当たる髭が少しだけこそばゆい。
そこまで感じ取って、思い出す。

ああ、そうだ、昨日の晩──。

走馬灯の様に脳裏を巡る記憶に、居たたまれなくなって、穏やかに眠る男に背を向けた。
信用されるまでと男は笑いながらあたしの体のあちこちに口付けた。
その言葉を実行するかの如く、意地を張ったあたしが観念するまで、執拗に攻められた。
色々口走った記憶に頭を抱えたくなる。
思わず両手で顔を覆って、頭を抱えたあたしを、後ろからゆっくりと腕が巻きついて来て、
わずかにあたしの体が揺れる。

「……目覚めるの早ぇよ、更年期にゃまだ早いだろ?」
「……あたしが更年期ならアンタもでしょうが」

オマエ今日は非番だろ?俺もなんだ、まだ寝てろよ。
なんて言いながら男がごそりと体制を変えるのが背中越しに伝わった。
背中に伝わる温もりにほんの少しだけ吐息が漏れる。
ああ、飾る必要の無いこんな朝は何年振りだろうか。
首筋に触れる野立の唇と髭の感触に、首を縮こませて、くすぐったさに笑う。

「………野立」
「色気の無い呼び方すんなよ、昨日みたいに信次郎って呼べよ」

……いや、そうじゃなくって。

「……寝てろって言ったのどこのどいつよ?」

後ろから伸ばされた腕がウエストを辿り越しを撫でて、
そこからまた上へと体のラインを通って肌の上を柔らかく触れる。
首筋を辿る男の唇に先ほどまでまどろんでいたあたしの気分を吹っ飛ばす。

「……っ……ぁ……ちょ、……あ、朝っぱらから……、……何してんのよ!」
「……んー?何ってナニを……」
「ケダモノ!」

じたばたともがくあたしをやすやすと押さえつけておいて、耳の裏に吐息が掛かる。

「……仕方ねーだろ、生理現象だ。朝の男は皆ケダモノなの」
「アンタはいつもでしょーが!っ…ちょ、何処触ってんの!……やめ……っていうか何か当たってる!」

太ももに当たる硬い感触に、背中を何かが通り抜けた。

「……観念しろって」

低い声音で囁かれて、力が抜けた。

降り注ぐ唇と柔らかく笑う目元がこの上なく甘いから、
観念して瞳を閉じた。
もう少し、素直になれたら、アンタの視線にも素直に笑える日が来るのかしらね。
今はまだ、まだ少し意地を張っているから。
伸ばした腕で捕まるだけで精一杯だけど。

もう少しだけ、待っててくれるでしょう?今までみたいに。






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