無反応のキス(非エロ)
野立信次郎×大澤絵里子


「――…ス!ボス!しっかりしてください!」

若い女の声がする。ナチュラルブラウンに染められたロングヘアに遮られ、顔は見えない。
ただその声は上擦り気味で肩を揺さぶる手は小刻みに震えていた。

「ぼ、ぼ、ボスがしんじゃ……ッ!」
「シャレにならんこと言うなや花形! あの女将軍がくたばるわけないやろ!」
「ボスも所詮は人の子、だったんだね……」
「そうですよ人間なら年を取るんですから! 無茶しちゃダメじゃないですかっ!」
「老化には勝てんかったんやな……」

――ゲホッ、ゴホッ、

ボスと呼ばれる倒れていた女――大澤絵里子が大きくむせた。
それとほぼ同時に瞼が動く。ぼけやけた視界には対策室のメンバーが映る。
少しずつ視界が広がる。だがしずくが目に入り反射的に強く眼をつぶった。
もう一度ゆっくりと目を開く。今度こそはっきりと姿をとらえた。

「……なに、ないてんのよ木元」
「べ、つに、ないてなんか……!」
「刑事がかんたんに、涙ながすなっていつもいってるでしょーが」
「……ボスも自分の能力以上の無茶をしたじゃないですか」

うまく言葉を紡げない木元を見かねて片桐が助け舟を出す。
無表情を保っている彼だが、感情は大きく乱れていた。
いたいとこつくなぁ、と笑う上司の姿に片桐は改めて安堵した。
普段の力強さには到底及ばないが気丈な彼女を思い出すには十分である。
改めて絵里子の無事に安心する中、緊張感の欠片もない声が発せられた。

「な?俺の言った通りだっただろ? 絵里子が溺れたぐらいで病院なんか行くわけないって」

あまりにも失礼な発言をした声の主を睨みつける。
近くに居た花形が震えあがったが、当の本人は何食わぬ顔。

「うるさい野立。溺れた“ぐらい”ってどういうことよ“ぐらい”って」
「文字通りの意味だけど?」
「あんたも突き落としてあげましょーか」
「そんなに水に滴るいい男が見たい? でも水なんて小道具使わなくても十分男前なのがこの野立信次郎なのさ」
「誰か氷水持ってきて! 至急!」

どうしてこの男はこんなに人の神経を逆撫でることが好きなのだろうか。


「そんなことばっかり言ってちゃダメですよボス!」
「ん?」

珍しく制してくる花形に絵里子は疑問を抱く。
首筋をまとわりつく髪に水滴が流れた。
そこで再び自分が全身ずぶ濡れであることを思い出す。
一度気付くと身体中に張り付く衣類が気持ち悪くて仕方ない。
ひとまず応急処置としてジャケットを脱いで絞ることにした。
雑巾のごとくジャケットから溢れ出る水の量に笑うしかない。あぁ早く着替えたい。

「意識のないボスに人工呼吸をしてくれたの、野立さんなんですから!」

――ドサッ! 絵里子の手から絞っていたジャケットが落ちた。
先ほど出来たばかりの小さな水たまりの水分を吸う。再び水を吸ったがそれどころではない。
『人工呼吸』『野立』のキーワードが絵里子の脳内で反芻する。
そんな状態の上司に気付かず、若き部下は興奮気味に続けた。

「颯爽と行動する野立さん、カッコよかったなぁ……! あんなの見たら男でも惚れちゃいますよ!」
「やだなー。そんなことあるからもっと言ってよ花形」
「訓練は受けてましたけど実際には何も出来ませんでしたよ。気が動転しきってて……!」
「混乱する僕たちに指示を出して。AEDなんて覚えてなかったよ」
「ホンマ、決めるところはビシっとするええオトコやで。いつもの野立さんからは想像出来ないそのギャップが、イイ……」

「……野立参事官補佐」
「どうした?」
「この度は危ないところを助けて頂き、感謝してもしきれません」
「上司が部下を助けるのは当然。これからも俺のためにがんばってね」
「ええ、それが一番の礼だと思います。でもね、」

……のちに目撃者達は語る。
時間が止まる。それを体感したという。
いつかエレベータで聞いた音など可愛いものであった。
角度、速さ、大きさ、気温、湿度、エネルギーその他もろもろが最高条件で整ったときのみ、遭遇できる。
特筆すべきところは始点から最高点までの距離の短さである。
ほぼゼロ距離であの爆音。もはや芸術の域である。
人間の一生のうちに出会えたことが奇跡と言っても過言ではない。
この先、これ以上最高のものに出会うことはないだろう。満場一致の意見であった。


――――バチンッ!!

「いっツ、ぁぐ……ッ……!!??」
「こーんな美女の寝込み襲ったんだから、これぐらい当然でしょ?」

のたうち回る男。女はすっくと立ち上がり、そのままその場を去る。
まさに惨状。

「ほらほらさっさと帰るわよ、なにボサっとしてるのあんたたち! 今日の仕事はまだ終わってないんだからね!」

まさかの光景に茫然自失であったが、我を取り戻した順に絵里子の後を追う。
先を歩く絵里子が不意に自身の両肩の重みを感じた。
片手には自分のずぶ濡れのジャケットがある。
不意に、淡い男物の香水の匂いが絵里子の鼻を掠めた。
何度も嗅いだ事のあるその香りに絵里子は小さく笑みをこぼし、冷えた身体を温めるためにもそのメンズのジャケットを羽織った。


〜After Story〜

「仮にも命の恩人にあの仕打ちはないんじゃねーの大澤サン」
「何度もやりすぎたって謝ってるでしょ! ったく、くどい男は嫌われるわよ。それに前から何度も言ってたでしょうが。仕事場でナニかしたら即効ビンタって」
「今回は特例だろー? 性的な目的じゃなかったぞ」

自宅にて缶チューハイを数本開け、ほろ酔いモードの野立はソファで絵里子を後ろから胸の中に閉じ込めていた。
溺死しかけたその晩に酒に浸るのは流石にダメだろうと絵里子はお茶を口にしていた。
絵里子の肩に顎を乗せる酔っ払いは不平を延々と愚痴っていた。
ハイハイ、と適当にあしらいつつ付き合う。
野立の顎髭が絵里子の頬に当たる。ザラリとして少し痛い。

「大体さー、絵里子は俺に対する愛が足りな過ぎるんだよ。もっと愛情持って接するべきだと思うね」
「十分接してるわよ」
「えー全然満たされてないー」
「子どもかあんたは!」

絵里子の反応に、野立は満足そうにケラケラ笑った。
一旦持っていたグラスを机に置き、コンビニで買ってきたつまみに手を伸ばす。
そしてまた一気に飲み干した。
自分を抱えたまま、器用に動くその姿に絵里子はなんとなく違和感を抱く。

「野立、今日のあんたなんか変よ?」

そう彼女が心配そうに言うと、野立の動きが止まった。
普段は泥酔状態になるため記憶がおぼろげな絵里子だが、相方の男は酒に呑まれない方法を知っている。
上手く自分をコントロールして酒という飲み物を楽しむのだ。

「いつもはもっと、なんつーか上手に飲み進めるのに」
「そりゃあ、ね」
「いい加減にして止めておいた方が」

「――お前が死にかけたってのに、飲まずにいられるか」

絵里子の耳元で低く囁くその声は、普段の軽い雰囲気を微塵も感じさせない。
突然の行動に絵里子は背筋がこわばり、距離を置こうとする。
だが、逃がさない、とばかりに野立の腕の力が強まり、いっそう近づいた。

「ホント、マジでビビった。俺の寿命10年は縮んだ。責任取って」
「…………」
「心配する方になってみろって。いっそ自分がおぼれた方がどんなにマシか」
「……ごめん」
「ダメ。ゆるさない」

絵里子のグラスも机に置かれた。
早々にその手が持って行かれ、不安定にぐらつく。
勢いに伴いグラスと氷の音が反響した。
放っておけば氷が必要以上に溶けて、注がれていた飲料は薄まっていくだろう。

「……んっ、やっ、」

呼吸をする間もなく、深い口付けが交わされる。
何度も角度を変えながら口腔を貪られ、歯列を舌先でなぞられる。
まるで草食動物を喰らう獣の捕食活動のようだ。
じっくりと、しかし的確に喰らい続ける。
受け止めきれなかった野立の唾液が、絵里子の口端から彼女のそれと混ざり合い首筋を伝い落ちていく。

「のだ、……まっ、くるしっ、」

絵里子の訴えに折れたのか、唇が離れていく。
しかし、そのまま野立の口唇は首筋を伝い降りていく。
彼の生温かい吐息が首にかかり、絵里子はくすぐったそうに肩を震わす。
彼女の反応に野立は満足そうに口元をゆがませた。

「……なに笑ってんの」
「いんやー。ただ相手が感じてこそのキスだよなって思って」
「どういう意味?」
「絵里子が息絶え絶えに俺のことにらんできたり、でも涙目で顔赤くしてるから迫力が全くなかったりとかね。そんな物欲しそうな目で見なくてもちゃんと続きやるよ?」
「いちいち説明しないでよ! それに欲しそうな目なんてしてないからッ!」
「まぁまぁ。俺が言いたいのは――」

――無反応のキスはもう勘弁ってこと






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